2016年02月27日
J・R・R・トールキン(山本史郎/訳)
『ホビット ゆきてかえりし物語』原書房
ビルボ・バギンズは、ホビットです。
ホビットの背丈は低く人間の半分くらい、鬚(ひげ)をはやした矮人(ドワーフ)よりも小柄です。とくにかわった魔法がつかえるということもありません。
バギンズの一族は、とても格式のたかい家柄と思われていました。というのも、冒険などしたことがないし、そもそも思いがけない行動に出るなどということが、いっさいないからなのです。
ある気持ちのいい日、ビルボは、杖をついた老人にあいさつをしました。それが、魔法使いのガンダルフでした。
ビルボにとってガンダルフは、亡くなった祖父の友人でした。あまりに久しぶりだったために、すっかり忘れていたのです。ガンダルフの行くところ、冒険の芽が萌えいで、物語の花の咲かざる場所はない、ということを。
翌日ビルボの家に、ドワーフたちがやってきました。ドワーフたちを率いるのは、あの偉大なソーリン・オウクンシールドです。それから、ガンダルフもやってきました。
はるか昔のことです。
ソーリンの祖父スロールは、山の下の王を名乗っていました。そのころスロールの一族の者たちは、鉱山を掘り、トンネルをうがって、とてつもない富と名声を得ていたのです。
評判は、取引をする人間ばかりでなく、邪竜(ドラゴン)をも引き寄せました。
山は、スモーグに襲われました。スモーグはドラゴンの中でも特別に性悪で、強欲で、めっぽう強く、山にいたドワーフは全滅してしまいました。助かったのは、たまたま山を離れていた数少ないドワーフだけ。
ソーリンは、自分たちのものである宝を取り返し、積年の恨みを晴らしたいと思っています。そんなとき、ガンダルフから地図と鍵と助言がもたらされたのです。
選りすぐりの押入(バーグラー)であるビルボ・バギンズを連れて行くように、と。
自分が冒険に出るなどと考えたこともなかったビルボですが、ドワーフたちと旅立つことになってしまいます。巨鬼(トロル)と遭遇し、悪鬼(ゴブリン)に捕まり、霧の山脈を越え、闇の森(マークウッド)のその先のはるか東の、寂しい山へ……。
《指輪物語》の前日談。
ビルボの母はトック一族の出身で、ガンダルフの友人というのも母方の祖父のこと。バギンズ一族は典型的なホビットだけれども、トック一族は変わり種。そのトックの血がビルボにも流れているというのがポイント。
ただドワーフについて行く、というだけでなく、ビルボ単独でも冒険を重ね、ときにはドワーフたちの窮地を救います。ソーリンの信頼を勝ち得るのも当然の結果。
児童書ゆえに軽く書かれてありますが、信頼を寄せてくれるソーリンに、ビルボはある決断をくだします。それが、とても重たい。そこのところはバギンズの血筋なのかもなぁ。
本書は、トールキン研究者のダグラス・A・アンダーソンによる、注釈つき。トールキンは、後から発表した《指輪物語》との整合性などのために何度か『ホビット』を改訂しています。その経緯が巻末にまとめられてます。それと、世界各国の『ホビット』で使われた挿絵も掲載。
以前、瀬田貞二/訳の『ホビットの冒険』を読んだときには、文章が古くさく思えたものでした。改めて新版を読んでみると、瀬田訳の方がよかったなぁ、と。
もしかすると、訳語を真似してはいけないと考えた結果、直訳らしき固いものになったのかもしれません。〈押入〉だと強盗を想像してしまうので〈忍びの者〉の方がしっくりくるのですが……。
2016年03月08日
ジョン・ケッセル(増田まもる/訳)
『ミレニアム・ヘッドライン』上下巻
ハヤカワ文庫SF1001〜1002
1999年。
経済が破綻し、国中が退廃しているアメリカ。伝染病や麻薬中毒が蔓延し、人々は宗教に救いを求めている。
千年紀が終わりつつある中、ジョージ・エバーハートは生き返った。妻のルーシー・ディ・ポールが、非合法な復活処置を施したためだった。
ジョージは、ケーブルテレビHCRのスペシャル・レポートのチーフ。〈千年王国(ミレニアム)〉シリーズを手がけている。
生き返ったジョージが着目したのは、異星人だった。
このところ、アメリカ各地でUFO報告や奇怪な事件が頻発している。ジョージは、事件に規則性があることに気がついた。そして、ひそかに地球に潜入した異星人による陰謀だと確信すると、ルーシーを残して旅立ってしまう。その存在を暴き、地球侵略を未然に防ぐために。
一方、テレビ伝導師のジミー・ドン・ギルレイは、ケーブルテレビを通じて千年王国の到来を説いていた。千年紀の終わりに、イエス・キリストを司令官とする神の宇宙船〈ニューエルサレム〉が地球に着陸し、最後の審判がはじまる、と。
ジョージの上司で親友のリチャードは、ギルレイの元に潜入取材を敢行するが……。
どうも読むのに集中できず。
ジョージは蘇生による後遺症なのか、精神を病んでいる感じ。リチャードも麻薬中毒のせいか、徐々に目的がずれてしまって、けっきょく何がしたいのか、自分でも分からない状況。もちろん、読者にも分からない。
ギルレイが終始一貫していて、一番マトモに思えてしまうから不思議です。
随所に、異星人の侵入を印象づける短編が挟まってます。ただ、振り返って考えてみると、異星人ってなんだったのかな、と。どうも釈然としないまま終わってしまいました。
ギルレイだけに絞って読むと、分かりやすいんですけど。
なお、1999年が千年紀の終わりのような書き方になっているのですが、発表された1989年当時はそういう認識だったのか、あえてそうしたのか。気になるところです。
2016年03月27日
キャサリン・M・ヴァレンテ(水越真麻/訳)
『宝石の筏で妖精国を旅した少女』ハヤカワ文庫FT
セプテンバーは、ネブラスカ州オハマの両親の家での暮らしに、かっすり退屈していました。教師だったお父さんは兵士となり、ヨーロッパへと行ったきり。お母さんは働いてばかり。
12歳の誕生日が過ぎたばかりのある夕方、〈緑の風〉が窓辺に来ました。
「〈そよ風のヒョウ〉の背に乗って、一緒に旅に出ないかね?」
行き先は妖精国。セプテンバーは迷いませんでした。だけど〈緑の風〉は妖精国に入ることができません。
ひとりになったセプテンバーは、魔女のハローとグッドバイ、そして姉妹の夫である人間狼のメニーサンクスと出会いました。
魔女たちは、未来を見て、未来に手を貸しています。ところが何年か前に、妖精国を支配している侯爵の命令に従わなかったために、大切なスプーンを盗まれてしまっていました。
セプテンバーは、スプーンを探しに行くと約束します。なにしろ妖精国に来たのは、冒険するためなんですから。本物の騎士みたいな本物の冒険をするために!
侯爵の住まいは、万精の都(パンデモニアム)。
セプテンバーは、道連れとなった飛竜(ワイバーン)のエーエルと共に、万精の都を目指しますが……。
児童書風を装った、大人向けの凝った物語。
伏線たっぷり。
妖精国の住民たちに人気があるのは〈善き女王マロー〉。現在マローは行方不明で、王位を奪い取った侯爵によって殺されたとも閉じ込められているとも噂されてます。侯爵は掟をたくさんこしらえて、住民たちを苦しめています。
21世紀の『不思議の国のアリス』と評されているだけあって、奇想天外。ただ、印象としては、ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』の方が近いかな、と。
『オズの魔法使い』のように、侯爵が中盤で登場し、セプテンバーにある依頼をします。でも、この物語の支配者は、一筋縄ではいかない。
侯爵が登場するまでは、単なる奇想天外もの。冒険といっても、不可思議世界を旅してるだけ。ところが、それまで伝聞だった侯爵の姿がはっきり示されると、物語は一変します。
児童書風なので、重たさは緩和されてます。でも、つらい。
2016年04月03日
L・スプレイグ・ディ・キャンブ&フレッチャー・プラット
(浅羽莢子/訳)
『妖精の王国』ハヤカワ文庫FT
フレッド・バーバーは、アメリカの外交官。
時は第二次世界大戦の真っただ中。頭を負傷したバーバーは、イギリスはヨークシャーの田舎家で、静養することになった。
そして迎えた6月23日。聖ヨハネの前夜祭、夏至の前日。
バーバーが滞在するガートン家でも、戸口に牛乳が置かれた。供え物がないと、妖精が子どもを盗んで取り替え子を置いていってしまうのだ。
合理主義者のバーバーは、そんなことは信じていない。安眠のために、こっそり牛乳を飲んでしまう。
ところがバーバーが目覚めると、そこは妖精の国。とっくに成人しているバーバーだったが、長命な妖精たちからすればまだまだ子ども。取り替え子とされてしまったのだ。
このころオベロン王の治める妖精の国では〈わやく〉に悩まされ、北方のコボルトに手を焼いていた。
バーバーは、オベロン王の外交官として、コボルトと交渉するために旅立つが……。
シェイクスピアの『真夏の夜の夢』を下敷きにした物語。タイタニア女王も登場しますが、時代がかった口調で、まさしくシェイクスピアな雰囲気。
〈わやく〉は、魔法や地形をねじ曲げてしまいます。バーバーはタイタニア女王から魔法の杖を授けられますが、使い方を教えてもらえません。しかも〈わやく〉があるため、あてにできない状況。
そんな逆風の中、3つの試練に立ち向かいます。ただ、試練そのものより、そこにたどり着く道程の方が比重が高いようです。いずれもあっけない幕切れで、拍子抜け。
ユーモア系というより、ナンセンス系ではないかという印象。 最後に語られる後日談の方が面白そうに思えてしまいました。
2016年04月09日
ロバート・A・ハインライン(山田順子/訳)
『レッド・プラネット』創元SF文庫
(『赤い惑星の少年』から改題)
ジム・マーロウは、火星植民地に暮らす少年。
火星の環境は厳しい。日が落ちれば、たちまち氷点下の過酷な寒さに襲われてしまう。ジムらサウス・コロニーの住民たちは、夏は南極にほど近いチャラックスで、冬は北極近くのコパイスまで大移住を余儀なくされている。
ジムには、火星の原住生物バウンサーのウィリスという友人がいた。ウィリスの知性は幼児レベル。ただ、ジムによく懐き、ジムもそれに応えようとしている。
ジムは親元を離れて学校に入ることが決まっているが、ウィリスも連れて行くつもりだ。
学校は、赤道近辺のシルティス・マイナーにある。運営しているのは、火星の開発を一手に担うカンパニー。カンパニーは、契約と認可により、コロニー住民のために、火星での高等地球教育を実施するように要請され、シルティス・マイナーだけに学校を設置したのだ。
ジムは、親友のフランク・サットンと同部屋となり、学校生活をスタートさせる。校風はリベラル。楽しいものだった。
ところが、ステュービン校長が退職したことで状況が一変してしまう。代わりにやってきたのは、カンパニーの経営者とつながりがあるM・ハウだった。
学生自治会は解散されられ、ジムたちは規則にがんじがらめ。あきらめの空気が漂う中、ジムは反抗的な態度を改めることができない。ジムは問題児として、ハウに目を付けられてしまう。
そんな最中ジムは、移住禁止政策のことを知った。
きっかけはウィリスだった。ウィリスには傍らの音声をそっくりそのまま記憶する習性があり、ハウと火星総支局長の密談を耳にしていたのだ。
カンパニーは開拓者たちを、極寒の冬に置き去りにしようとしていた。
冬は間近に迫っている。ジムとフランクは、コロニーの仲間たちに一報を入れるべく、学校を脱出するが……。
火星人も登場する、いわゆる古きよき時代のSF。
親友フランクが実に清々しい。学友スマイスも、あらゆる出来事を商売のネタにするキャラクターが、おもしろかったです。肝心のジムはというと、ちょっと……。
ハウの命令は理不尽ですし、地球に本部があるカンパニーの闇も伝わりますが、それより苛々してしまうのが、ジムの言動。高等教育を受けるくらいの歳なのに、なんでそういうことするかな、と。
ジムと同世代のときに読めば、もっと寄り添った読み方ができたかもしれません。つくづく読書はタイミング。
2016年04月16日
ジョン・E・スティス(小隅 黎/訳)
『レッドシフト・ランデヴー』ハヤカワ文庫SF954
宇宙船〈レッドシフト〉は、球形をしていた。
船内は七層からなり、タマネギのように同心円状に分割されている。光速を軽々と超えられるのは、第十階層に存在しているため。
第十階層は、通常の第0階層とは違い、光の速度は秒速10メートル。そのため船内では、相対論的現象や光学的錯覚をふんだんに体験できる。子どもですら、ちょっと走っただけで音速を超えることができた。
ジェイスン・クラフトは、そんな〈レッドシフト〉の一等航行士。
船内を巡回中、自殺しようとしている乗客ジェニー・ソンダースと遭遇した。ジェイスンは、船内の特殊環境に不慣れなジェニーの隙をつき、保護に成功する。
船医の治療もあって落ち着いたかに思えたジェニーだったが、けっきょく自殺してしまった。時を同じくして、乗員のフェン・メルガードが姿を消していた。ジェイスンは、メルガードの捜索を開始する。
まもなく、ジェニーが他殺だったことが明らかになった。
メルガードが犯人なのか?
捜索エリアは乗客の滞在するエリアにまで広げられるが、メルガードの行方は杳として知れない。残すは、船外のみ。ジェイスンは宇宙服を着て船を出るが……。
はじまりは、ミステリ。でも、自殺かと思ったら他殺でした、という流れが終わると、ハリウッド映画のようなアクション冒険ものになります。
ジェイスンは、困ってる人は助けずにいられないタチ。いわゆるいい人で、なにやら曰くありげ。その曰くは、物語にも大きく関係していきます。
もうひとつ、物語に関わってくるのが〈ザナハラ〉。
宗教的な桃源郷です。噂を聞いたことがある人すら少なく、所在地は極秘。莫大な富を寄付するなどして資格を得て、はじめて案内されます。
実は〈レッドシフト〉の乗客タラ・ペセク・クラインは、かつて〈ザナハラ〉に住んでいた、という経歴の持ち主です。タラが折々に、〈ザナハラ〉の生活について語ってくれます。
自殺に見せかけた殺人とか、窮地に陥った男女のなんとかとか、すごくオーソドックスな展開も、舞台が特殊だと俄然おもしろく思えるから不思議です。その特殊ぶりも、たとえ理解できなくても、そういうものだと流してしまえるレベル。
ハードSFにつきものの科学解説つきですが、ハードSFとは少々ちがった印象でした。
2016年04月23日
山本兼一
『利休にたずねよ』PHP文芸文庫
天正19年(1591年)。
利休が秀吉の茶頭となって9年。この日利休は、死を賜ることが決まっていた。
切腹の見届け役からは、上様にひとこと詫びれば許されると伝えられている。嘘でもよいから、と。
だが、利休が額ずくのは美しいものだけ。嘘であっても秀吉に頭を下げることはできなかった。
利休は最期の茶をたてつつ、ある女のことを思い出していた。肌身離さず持ち続けてきた緑釉の香合は、あの女の形見。19歳だった利休が殺した女だった。
利休は、一畳半の茶室で生涯を閉じた。
直木賞受賞作。
茶人・千利休の生涯を辿る連作短編集。
はじまりは、利休の切腹。そこから少しずつ、時をさかのぼっていきます。切腹前日の秀吉、切腹15日前の細川忠興、切腹16日前の古渓宗陳、切腹24日前の古田織部、ひと月前の徳川家康……。
とても興味深い展開のさせ方なのですが、徐々に若返っていくということは、精神的には欠けていくということ。ただ、利休の審美眼が生まれつきということもあって、どう変化していったのか、掴みきれませんでした。
実は、物語の大半は、切腹までの一年以内の出来事に費やされてます。秀吉の茶頭になる以前のことはかなり駆け足。そのためよけいに、書き方はおもしろいけど……と思ってしまうのかもしれません。
2016年04月24日
佐伯泰英
『更衣(きさらぎ)ノ鷹』上下巻/双葉文庫
《居眠り磐音江戸双紙》シリーズ31〜32
佐々木磐音(いわね)は、神保小路の尚武館道場の若先生。
このころ江戸では、幕藩体制の屋台骨が大きくぐらついていた。原因は、老中田沼意次の専横政治にある。粗悪な通貨が出回り、庶民の生活は苦しく、賄賂が横行していた。
人々の期待は、聡明にして英邁な将軍嗣子家基に集まっていた。やがては家基が将軍に就き、田沼時代は終わりを迎える。それを願っていた。
意次にとっては、家基の将軍就任はどうしても避けたい。機会を狙っては、家基に刺客を差し向けていた。
磐音は、師匠にして養父の佐々木玲圓や、将軍家治の御側御用取次の速水左近らと協力し、ひそかに家基を守ってきた。しかし、意次の権勢は強まるばかり。
家基の周囲からは、次々と親家基派の家臣たちが除けられていく。剣術指南役を務める磐音も、いつお役御免となるか分からない。
そんな最中、磐音の前に、剣客丸目喜左衛門高継の孫娘歌女が現れる。
かつての戦いで磐音は、丸目の腕を切り落として退けた。その負傷が原因で、丸目は身罷ったという。磐音は歌女と、果たし合いをすることになる。
どうやら歌目の背後には、意次がいるらしい。
磐音は、歌目の動きに注意しつつ、家基を密かに護衛するが……。
シリーズ転換点。
マンネリになりつつあった展開が、ようやく大きく動き出します。合間には、松平辰平の物語が少し挟まります。
辰平は磐音の門弟。『鯖雲ノ城』で、里帰りする磐音にくっついて豊後関前藩に赴いたのを皮切りに、武者修行の旅に出てます。本作では小休止のような扱いで語られます。
注目は、前作の『侘助ノ白』で初登場の小田平助。まるで昔からいる人のような存在感がありました。口調が独特なので、分かりやすいのは助かります。
本作ではついに、田沼意次の経歴が披露されます。
そして、田沼家の影仕事をする人物として浮上してくるのが〈神田橋のお部屋様〉という人物。意次の愛妾です。意次自身は、登場しません。
意次が出てこないので、周囲にいいように利用されているだけ、というオチもありえそうです。そういうひねった作品ではないと思いますが。
2016年04月27日
佐伯泰英
『孤愁(こしゅう)ノ春』双葉文庫
《居眠り磐音江戸双紙》シリーズ33
佐々木磐音(いわね)は、神保小路の尚武館道場の若先生。
将軍嗣子だった家基が暗殺され、尚武館は閉鎖、磐音は小梅村にある江戸両替屋行司今津屋の御寮に身を寄せていた。老中田沼意次の目があり、出入りはおろか文のやりとりもままならない。
磐音は内儀のおこんをつれ、ひそかに脱出を果たす。
手助けしたのは、将軍お庭番だった弥助と弟子の霧子。
目指すは、刈谷藩。刈谷は佐々木家の出身地で、刈谷宿称名寺に先祖の墓所があった。
時を同じくして、三味線作りの名人鶴吉の元に、ある依頼が舞い込む。依頼主は〈神田橋のお部屋様〉と呼ばれる、意次の愛妾おすな。おすなの三味線の腕前に絶句した鶴吉だったが、かつて磐音に受けた恩を思い、取り入ることを決意する。
そんな鶴吉がつかんだ情報は、雹田平(ひょうでんぺい)という系図屋が磐音を追っている、ということ。
意次は、自身とよく似た佐野家の系図を借り受け、田沼家の家系図を創作しているところ。その作業中、雹田平は磐音逃亡の知らせを耳にし、おすなに申し出。
系図屋は過去を探って未来を予測する匠。磐音の行き先は系図が教えてくれる、と。
鶴吉から一報を受け取った磐音一行は、追っ手をかいくぐるべく策をねるが……。
磐音らの逃避行が、メインテーマ。
江戸に残る、磐音が関わってきた人たちのあれこれなども語られます。
親家基派だった幕臣速水左近の座敷牢入りが一番重いくらいで、血の雨は降りません。拷問もなし。見張りがついてて雰囲気は暗いのですが、粛正しなくていいのかな、と心配になってきます。
磐音の養父母である佐々木玲圓夫婦が自害しているので、それで充分なのか。
あまり深いことを考えず、磐音と弥助と霧子の活躍に胸を躍らせるべきなんでしょうね。
2016年04月28日
佐伯泰英
『尾張ノ夏』双葉文庫
《居眠り磐音江戸双紙》シリーズ34
老中田沼意次の差し金で、将軍嗣子だった家基が暗殺された。意次は将軍家治から御養君御用掛を命じられ、その権力は絶頂。そんな意次が気にかけているのが、家基の剣術指南役だった佐々木磐音(いわね)の動向だった。
江戸を脱出した磐音は、小田原藩町奉行和泉常信が臣下清水平四郎と名乗っていた。
現在は、内儀のおこん、将軍お庭番だった弥助と弟子の霧子と共に、名古屋城下に潜伏中。お伊勢参りの道中の名古屋見物と称し、聞安寺の長屋を借り受けていた。
生活も落ち着き始めたところで、磐音とおこんは城下の散策に出る。ふたりが興味をひかれたのは、豪壮な店構えの呉服屋尾州茶屋家だった。
尾州茶屋家は、御用商人として、尾張藩の細作までこなす家柄だ。たまたま大番頭の三郎清定と面識をもった磐音は、稽古のための道場を紹介してもらう。案内されたのは、柳生新陰流尾張派の総本山、尾張藩道場。
磐音は持ち前の人柄と剣の腕前で、周囲の人々を魅了していく。
一方、磐音を追う雹田平(ひょうでんぺい)は、卜により磐音の居所を突き止めていた。だが、尾張徳川家は徳川御三家の筆頭。意次の名前を出したところで好き勝手にできる土地柄ではない。
なんとかして磐音たち一行を尾張から追い出そうと画策するが……。
磐音の用心棒稼業復活の巻。
その昔、江戸の今津屋でさんざん用心棒しましたから、尾州茶屋で頼まれても手慣れたもの。今津屋もかなり気前のいい大店でしたが、尾州茶屋はそれ以上。
なお、尾州茶屋の本店は京にあって、徳川家康の神君伊賀越えを手助けした茶屋四郎次郎のお店です。
磐音たちは本名で呼び合ったりと、隠れたり偽ったりが苦手のようで正体バレバレ。ただ、そこは、徳川御三家筆頭のプライドが高い名古屋。藩主から末端に至るまで、紀伊閥が幅を利かせる幕府に思うところがあるので、見て見ぬふり。
そして、前作『孤愁ノ春』から登場した雹田平が、やっぱりただの系図屋ではないことが判明。唐人で、あやしげな術を使ったりしてます。
そうでもしないと、磐音の潜伏先なんて分かりませんものね。そのあたりは割り切らないと、このシリーズを読むのはつらいです。