

最近は、辞書をひく機会がめっきり減りました。
モニタに向かって文字を打っていると、漢字変換候補に簡単な意味がぴょこっとついてきます。日常的にはそれで充分。
紙の辞書はもう手放してしまって、手もとに残しているのは電子版のみ。それも、たまに使うと載っていないことが多い。わざわざ意味を調べるのは専門用語や比較的新しい言葉なので、守備範囲外だったり、まだ辞書に採用されていなかったり、ということが多いようです。
もう何年も前の「新明解国語辞典」なので、そろそろ買い直すべきなんでしょうけど。(確認してみたら、最新の第七版でした)
その昔「辞書は毎年買い替えるべし」という教えを受けました。版は同じでも、刷ごとに内容が更新されているから、と。
学生のころ、さすがにそこまではしてませんでしたが、5冊ほど、使い分けていた時期がありました。ちょっと毛色のちがうものを。
同じ言葉でも、ちがう表現で説明されていることがままありましたから。ときには、まったく同じ語釈だったこともありましたっけ。
どれも、監修者はたいてい金田一京助でした。この名前をどのように受けとめていたか、出版社がちがっても語釈が同じなのはそのせいだと思っていたか、名前だけだろうと思っていたか、もはや定かでありません。
さて、昨年のことですが、三浦しをんの『舟を編む』を読みました。だいぶ前に本屋大賞を受賞して話題になった一冊です。映画化もされました。
辞書がテーマになっている物語ってあまり聞かないので、興味津々。でも、読んでみたら、期待とは少々ちがってました。確かに、言葉を探求するエピソードはあります。少しずつ辞書が編まれてもいきます。
実は、それ意外の要素の方が多いんです。
辞書一辺倒では、人を引きつける物語にはしにくいのでしょう。それでは大賞をとれなかったでしょうから、そういうものなんだろうな、と思いつつ、がっかりしたのを覚えています。
つい最近、あるテレビドラマに辞書編纂者が登場しました。
その関係で、佐々木健一の『辞書になった男』のことを知りました。その本は、かつてテレビ放映されたドキュメンタリー「ケンボー先生と山田先生 辞書に人生を捧げた二人の男」にエピソードを追加してまとめたもの。あのドラマで登場した先生のモデルはこの人ですよ、と。
それが、ケンボー先生こと見坊豪紀でした。
あのときの欲求不満を解消できるのではないか、そう考えて読みました。
佐々木健一『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』(文藝春秋)
すでに亡くなられていますが、
見坊豪紀は『三省堂国語辞典』を
山田忠雄は『新明解国語辞典』を生みだしました。
どちらの辞書も三省堂から出版されていて、元はといえば『明解国語辞典』が出発点。ふたりとも『明解国語辞典』の編纂者であり東大の同期生という間柄。(ただし、見坊豪紀の方が2つ歳上)
ところが、あるとき仲違いをしてしまいます。ある時期を境に断絶して、関係が修復されることはありませんでした。
その突然の絶縁が、昭和辞書史の謎。
ふたりはなぜ決裂したのか。なにがあったのか。どうしてそうなったのか。それらを解き明かそうとしたのが本書です。(金田一京助大活躍の謎にも触れてます)
本書では、辞書というものも「作り手の思いや人格がにじみ出ている」と、実際に採用された語釈、用例が数多く紹介されてます。
なかでも著者が着目したのが『新明解国語辞典』第四版に掲載された【時点】についての用例。(第七版ではすでに差し代えられていました)
「1月9日の時点では、その事実は判明していなかった」
ある関係者のインタビューでも「1月9日」という日付への言及がありました。著者は、その日になにかあったのではないかと仮説を立てます。
そういうミステリでした。
ノンフィクションだけどおもしろいのか、ノンフィクションだからこそおもしろいのか。さらに膨らまして小説になったら読んでみたい……。
ところで本書では、
『三省堂国語辞典』は、客観的、短文、簡潔、現代的。
『新明解国語辞典』は、主観的、長文、詳細、規範的。
と紹介されています。それがそのまま、ふたりの人と成り、辞書を編むうえでの方針を現しています。
その実例がいくつか紹介されていましたが、もっとも印象に残ったのが『三省堂国語辞典』による【常識】の語釈でした。
二版では
「健全な社会人が共通に持つ、ふつうの知識または考え方。コモンセンス」
となっていたものが三版では
「その社会が共通に持つ、知識または考え方。コモンセンス」
となりました。
改まった三版の語釈が心に響きました。
もしかすると、新しい言葉の採用に積極的という『三省堂国語辞典』の方が自分には合っているのかもしれません。
そんなことを考えた一冊でした。