
2025年09月11日
デニス・E・テイラー(金子 浩/訳)
『シンギュラリティ・トラップ』ハヤカワ文庫SF2254
22世紀。
アイヴァン・プリチャートは、気候変動難民の息子。温暖化が進行したこの時代、人々は環境悪化に苦しんでいる。地球上の居住可能な土地は減りつづけ、庶民は狭い家に押し込まれるように暮らしている。
アイヴァンも同じ。結婚して子供も生まれたが、家計は火の車。借金が増えて資産が減っていき、状況は年を追うごとに悪化していく。
アイヴァンは、小惑星の探鉱に加わることを決断した。給料はよく、いい鉱脈が見つかれば大金持ちになれる。どうにか〈マッド・アストラ〉と契約し、新人の探鉱作業員として出発した。
小惑星探掘は不安定な稼業だ。必ず儲かるものでもない。
最初の宙域では、遠征費用をまかなえるだけの鉱石を含有する小惑星はひとつも見つからなかった。船内の空気がめっきり暗くなってしまう。
ふたつめの宙域で、大きなピーナツに似ていなくもない岩が見つかる。すぐそばには別の小さな岩もあり、なんらかの異常物の存在が認められた。
最初の調査は良好。大きい岩には、探鉱船を買えるほどの成果が期待できる。船員たちが喜びにわく中、アイヴァンたちは小さいほうの岩も調べた。
岩は、不思議なことに宇宙空間でほぼ静止しており、重力がいちばん弱いところになにかがあった。超ウラン元素に相当する密度の小さな鉱脈が検出されるが、あり得ないことだ。
埋もれていたのは、スイカサイズのクルミのようなもの。アイヴァンは手を出してしまう。それは触れた途端に変形して、灰色の物質が手と前腕部をおおった。
宇宙服の腕部分を切り剥がすが、謎の物質は透過したらしい。腕にまで付着していた。
アイヴァンの腕を切断する決断が下されるが、腕は再生され、肉体が次々と人工物に置き換えられていく。アイヴァンは、意識の奥のほうに、なにかを感じるようになっていく。
一方〈マッド・アストラ〉から一報を受けた惑星間疾病管理予防センター(ICDC)では、受け入れ態勢を整えていた。予期せぬファーストコンタクトとあって、情報を封じ、隔離することが決まる。
だが、ICDCはそのための施設をもっていない。国際地球連合宇宙軍から対象船を隔離できる居住プラットフォームを提供してもらうのは標準的な共有プロトコルによる扱いだ。そのためICDCの調査チームは、軍も相手にしなければならない。
アイヴァンともども乗組員たちも隔離され、さまざまな調査が行われるが……。
SF
ファーストコンタクトもの。
シンギュラリティが、トラップで仕掛けられていた、と。
アイヴァンにとって、はじめての宇宙。事件が起こるまで、かなり丁寧に書かれてます。
その分だけ本題のシンギュラリティに関連したところが少なくなるので、もったいないような気もします。それが作風なのかもしれませんが。
2025年09月13日
江戸川乱歩
『吸血鬼』青空文庫
倭文子(しずこ)は早くに両親を失い遠い縁者に養われて育ったせいか、金銭に激しい執着を持っていた。恋人を弊履の如く打棄て百万長者の畑柳に嫁づいたのもそのせいだ。
歳の離れた畑柳は容貌も醜く、金儲けの為に法網をくぐることばかり考えている。だが倭文子は畑柳が儲けてくれる金が好きで、その金をもってきてくれる畑柳のことも好きだった。
ところが畑柳がつかまってしまう。帰ることなく、獄中でこの世を去った。
倭文子は、茂という6歳の子供がいるとはいえ、まだ25歳。美貌と百万の富に、求婚者が次々と現れる。嫌気がさした倭文子は茂を乳母に任せ、正体を隠してひとり気ままな湯治に出かけた。
そこで同い年の三谷房夫と出逢う。
恋人となった三谷に倭文子が正体を告げたのは、ふたりが東京で逢瀬を重ねるようになってから。三谷の気持ちは変わらない。三谷は畑柳家に出入りするようになる。
そんなとき、茂が誘拐されてしまった。警察に連絡し行方をさがすが、身代金を要求する電話がかかってくる。倭文子が金をもっていくことを要求され、倭文子の着物を着た三谷が、代わりに金を届けた。
作戦はうまくいったかに思えた。しかし警察が捕らえた男は身代わりで、子供も別人だった。依然として茂の居所が分からぬまま、倭文子まで行方不明になってしまう。
翌日、畑柳家に小川正一と名乗る男が訪ねてくる。客間に通された小川正一は、こっそり二階の書斎に入りこんだうえ死体となって発見された。そのうえ警察がかけつけたとき、死体は跡形もなく消えていた。
誰もが首をひねる中、不審者が目撃され、追跡した警察によって倭文子と茂が発見される。だが、犯人の逮捕は失敗に終わった。消えた死体といい、謎は深まるばかり。
三谷は倭文子の同意を得て、素人探偵の明智小五郎に相談するが……。
《明智小五郎》シリーズ。
主人公の明智が登場するまでに、いろんな事件が起こってます。
温泉宿で倭文子をめぐって三谷と決闘する、洋画家の岡田道彦。先年の大震災のときに大怪我をしたという不気味な老人、蛭田嶺蔵の謎の行動。
そのうえで茂と倭文子の誘拐事件が発生し、その最中に小川正一の死体の謎が勃発します。謎はそこで終わりません。
最後にはすべて説明がつけられます。
とにかく倭文子がどうしようもない女で。だから事件に巻き込まれちゃうんだろうな、などと考えてしまいました。
2025年09月18日
M・W・クレイヴン(東野さやか/訳)
『ストーンサークルの殺人』ハヤカワ・ミステリ文庫
ワシントン・ポーは、かつて国家犯罪対策庁(NCA)は重大犯罪分析課(SCAS)の警部だった。
あるとき、女性が拉致監禁のうえ殺害される事件が立て続けに起こった。3人目となる少女が行方不明になったとき、ポーはある人物を容疑者として確信する。ところが政治的な配慮から事情聴取されないばかりか、本人に疑惑が伝わってしまう。
そのときポーはミスをした。少女の家族に、重要容疑者の載った書類を渡してしまったのだ。少女の父親は容疑者を捕まえると死にいたるほどの拷問を加え、少女は無事に救出された。
ポーのミスは、各所に波紋を広げてしまう。本人は停職のうえ、内部調査および査問の対象となった。
それから18ヶ月。
カンブリア州で隠遁生活をしているポーを、SCASのステファニー・フリン警部が訪ねてくる。ポーの停職処分が解かれていた。ポーは部長刑事として、フリンのもとイモレーション・マンの捜査にあたるよう命令される。
イモレーション・マンとは、マスコミが名づけた連続殺人鬼のこと。カンブリア州では前代未聞の事件で、ポーの住む山奥にもニュースは伝わっている。
発見されている被害者は3名。元新聞記者、農業経営者、保守党議員といった60代〜70代の男性で、接点はない。かれらは、異なるストーンサークルで同じように火あぶりにされていた。
途中から捜査に加わったSCASでは、遺体を特殊な断層撮影装置でスキャンした。検死では見つからなかった、生前および死後につけられた傷を割り出せるのだ。
その結果、分析官ティリー・ブラッドショーが、3人目の被害者の胸部に刻まれた文字を発見した。〈ワシントン・ポー〉とあった。その名の上部には、数字の5のような文字もあった。
ポーが5番目の被害者になるという予告ではないのか。
ポーは戸惑う。被害者たちのことは知らない。ポーは38歳だ。被害者たちの年齢層ともあわない。
ポーと、フリン、ブラッドショーの3人が、カンブリア州警察の捜査に協力することになった。SCASと州警察の連絡役として、ポーと旧知の仲であるキリアン・リード部長刑事も加わる。
ポーは、被害者たちになんらかの繋がりがあるのではないかと考えるが……。
《ワシントン・ポー》シリーズ第一作
英国推理作家協会賞受賞
ポーは一匹狼系。州警察はポーの行動を制限したり、逆に勝手に動くことを期待したり。
一匹狼といっても人嫌いというわけではなく、ポーとティリーのやりとりが、いいです。
ティリーはずっと学問の世界にいた人で、天才なんだけど世間知らず。本音と建前が分かっておらず、芯がある分我慢強い。それだけに職場のいじめに耐えてしまっていて、いつかポッキリ折れてしまいそう。
ポーは名前のせいでいじめられた経験があり、そういったことには敏感だし、絶対に許しません。
ふたりが友人になるのも分かる。
ティリーは、本作だけでもかなり成長します。でも、まだまだ学ぶことがありそう。次作以降の成長余地も残っていて、とても続編が読みたくなりました。
事件が凄惨なだけに、その関係性が救いでした。
《ファーシーアの一族》三部作、第2部
六公国で〈技〉として知られる能力は、主に遠視者(ファーシーア)王家の血筋に現れる。訓練を受けた者は、どれほど離れていようとも他者の心に接触することができた。
それよりも古く〈気〉と呼ばれる魔法もある。蔑まれており、人に知られないよう気をつかう。獣に対する魔法で、そのために獣になってしまうという伝説まである。
フィッツ=シヴァルリ・ファーシーアは、第一王子シヴァルリの私生児だった。六公国では、私生児というのは歓迎されない。フィッツの存在が明らかになったとき、シヴァルリは継ぎの王であることを返上し、そのまま亡くなった。
代わって継ぎの王となった第二王子ヴェリティは、山の王国の王女ケトリッケンを継ぎの王妃に迎える。
このころ六公国は、揺れていた。
海に面する4地域は赤い船団に襲われ、甚大な被害をだしている。海からやってくるかれらに村々を焼かれ、連れ去られた人は熔化された。
熔化された者は、記憶も人間としての認識も失い、自分本位で、生き残ることしか考えない。思考のない嵐やあふれる川のように貪欲で無慈悲。対処するには命を奪うしかなかった。
赤い船団がもたらす被害に、内陸2地域の反応は鈍い。自分たちには関係のないことと考えているのだ。
宮廷では、ヴェリティが赤い船団の対処に追われ、シュルード王は健康状態が芳しくない。第三王子リーガルが、慣れない宮廷生活に孤独をつのらせるケトリッケンに取り入り、内陸地域の不満を吸収して勢力をのばしていく。
王に忠誠を誓っているフィッツは、リーガルを苦々しく思っている。だが、私生児にできることは多くない。
フィッツには秘密があった。〈技〉は大きく損なわれあてにできないが、〈気〉を扱うこともできるのだ。
フィッツは仔狼を助けたことから、狼〈ナイトアイズ〉との絆を得た。ナイトアイズの能力も活用し、六公国のため、ヴェリティのため活躍するが……。
宮廷の陰謀うずまくファンタジー。
前作『騎士の息子』と同様にフィッツの回想録になってます。
地文が「わたし」で年齢を重ねた雰囲気ですが、語りの対象であるフィッツは青二才。そのギャップが違和感になってしまっていて、もったいないな、と。
好みの問題でしょうけどね。
リーガルの陰謀は花盛りで、憎らしくなるほどでした。
赤い船団の謎とか、解決は最終巻に持ち越し。まだまだ紆余曲折ありそうです。
1940年。
ネッド・ヘンリーは、廃墟と化したコヴェントリー大聖堂にいた。探しているのは〈主教の鳥株〉と名づけられているヴィクトリア朝花瓶。空襲以前には礼拝堂にあったことは調べがついている。
オックスフォード大学が大聖堂復元プロジェクトに同意したのは、時間理論の研究のための資金が得られると考えたからだった。思惑は大外れ。強引なレイディ・シュラプネルのせいで研究はストップし、人員は徴用され、技術部の全コンピュータが押さえられてしまった。
大聖堂の再建に執着するレイディ・シュラプネルは、あらゆる細部にこだわっている。失われた本物そっくりにしなければならない、と。それもこれも、先祖がコヴェントリーで人生を一変させる経験をしたせい。
ネッドは今週だけで13回もタイムトラベルした。とうとうタイムラグ症状がでて、現代に強制送還されてしまう。
献堂式は17日後。2週間の絶対安静という診断だったが、レイディ・シュラプネルが許すはずもない。
このころ大学では、大問題が勃発していた。1888年で調査にあたっていたヴェリティ・キンドルが、猫を連れ帰ってきてしまったのだ。
プリンセス・アージュマンドと名づけられていた猫は、トシーの愛猫。トシーはレイディ・シュラプネルの祖先にあたる。
時空連続体の法則により、過去からなにかを持ち帰ることはできない。これまでの研究では、それが常識だった。なぜ猫が未来にやってこれたのか、誰にも分からない。
そんな騒動も、タイムラグ症状のネッドには他人事。レイディ・シュラプネルを避けたいがために、大急ぎでタイムトラベルした。
到着したのは1888年。ネッドの任務はひとつだけ。任務を果たしたら現地で好きに休むことができるのだ。
たまたまネッドが知り合ったテレンス・セント・トゥルーズは、トシーに一目惚れしている。トシーのためにプリンセス・アージュマンドを見つける約束をしているらしい。
そしてネッドの任務は、プリンセス・アージュマンドを連れ帰ること。手荷物のなかには眠るプリンセス・アージュマンドがいる。
愛猫と再会したトシーは大喜び。テレンスのおかげと思いこみ、ふたりは相思相愛の仲になってしまう。だが、トシーの結婚相手はイニシャルが〈C〉のはず。
ヴェリティと合流したネッドは、歴史を変えないよう悪戦苦闘するが……。
《オックスフォード大学史学部》シリーズ
16年ぶりの再読。
いろいろなことを忘れてましたが、なかでも最大の出来事は猫の絶滅。2004年だそうです。プリンセス・アージュマンドが過去から現れたとき、さぞかしびっくりしたことでしょうね。
物語は、ウィリスお得意のすれ違いの連発。軽妙さがあり、重いこともありました。
作中、いろんな文学作品が取りあげられてます。
16年前に読んだときより、だいぶ既読が増えました。知らなくとも物語は楽しめますが、よりよい感触を得られたように思います。
なお、タイトルの出所は、ジェローム・K・ジェローム『ボートの三人男 −犬は勘定に入れません−』から。作中、ボートに乗った三人組が出てきたり、形式が踏襲されていたりと、かなり意識されてます。
2025年10月04日
アーサー・C・クラーク&スティーヴン・バクスター
(冬川 亘/訳)
『過ぎ去りし日々の光』上下巻
ハヤカワ文庫SF1338〜1339
2033年。
アマチュア天文家たちのネットワークが、天王星のむこうに〈にがよもぎ〉を発見した。
400キロメートルほどの〈にがよもぎ〉は、かつては海王星か天王星の衛星だったのだろう。それがなんらかの理由で動き出し、地球との衝突コースに乗った。
世界が破滅するのは、2534年。まだ500年あるとはいえ、人類すべてをほかの天体に移住させるには時間が足りない。また、わきへ押しやる手段もない。
大衆には〈にがよもぎ〉のことは伏せられていた。情報を暴露して大スクープをものにしたのは、ジャーナリストのケート・マンゾーニだった。
ケートの次の狙いは、アワワールド社のハイラム・パターソン。
イングランドの貧しい家に生まれたハイラムは、一代で財を成した実業家。放送やニュース、スポーツ、娯楽などの先端技術をかかえている。とはいえ数多くの強力な企業のひとつにすぎない。
そんなハイラムが、形勢をすっかり変えるような製品を開発しているらしい。ケートはハイラムの息子である後継者ボビーに近づいていく。ハイラムによく似たボビーは、どこか調子外れなところがある。
ハイラムは世間に向けて、ワームホールを利用したテクノロジーを披露した。ワームホールをリンクとしてシグナルを送受信すれば、光よりも速くメッセージをやりとりすることができる。世界中と時差なしで通信できるのだ。
画期的だが、ハイラムが目論むのはその先のこと。
実は、ハイラムにはもうひとり息子がいる。最初の妻との間に生まれたダヴィッド・キュルゾンだ。
ハイラムは物理学者のダヴィッドを呼び寄せ、研究を命じた。目指すは、映像革命。
もっと大きな、向こうが覗けるくらいのワームホールができれば、他社を出し抜ける。任意の場所にワームホールを開いて映像を得られれば、特約記者や特派クルーはいらない。ハイラムの前に秘密の場所はなくなるのだ。
ケートはハイラムと取引し、ハイラムの計画に関わっていくことになるが……。
13年ぶりの再読。
ハイラムの野望が、世界を変えていきます。猪突猛進ぶりに周囲の人々はふりまわされるし、世界もふりまわされる。一代で財を成す人って、こうなんだろうな、と思わせられました。
映像革命は、かならずしもハイラムの思惑通りとはなりません。
ハイラムの秘密も、ハイラムが開発させた道具によって暴かれてしまいます。
それと、忘れがちな〈にがよもぎ〉が社会への圧力になっていて、大衆の行動に影響を与えてます。
いろんな人、いろんなことが絡まりあって、それぞれに思惑があって。それなら濃厚な人間ドラマかといえば、そんなこともなく。そのあたりがクラークっぽいな、と。
ちなみに、クラークが案をだしてバクスターが書いたそうです。
2025年10月06日
ホフマン(石丸静雄/訳)
『牡猫ムルの人生観』上下巻/角川文庫
(別題『ネコのムル君の人生観』)
猫のムルが生まれてはじめて見た人間が、アブラハム先生だった。アブラハム先生はいろんな人に慕われる背の低い痩せた老人で、多芸多能。狭ぐるしい、なん階もある家で暮らしている。
アブラハム先生の家でムルは仔猫の時期から、窓から屋根へ、屋根から屋根裏の部屋へと、なんの苦もなく散歩した。なかでもひきつけられたのは、アブラハム先生の部屋だ。テーブルには書物とか書類とか、色んな珍しい機械とかが置かれてあった。
ムルの心の中には、勉強したい気持ちがある。好奇心もあってテーブルに乗っていたずらする都度、ムルはこっぴどく怒鳴られた。
ある日ムルは、アブラハム先生が不在のときテーブルで、分厚い本を開いてみた。文字を読めるか試したかったが、さっぱり分からない。じっと本を睨んでいるうちに先生が帰ってきて、やはり怒鳴られてしまった。
そのあとすぐに先生は、ムルがしていたことに気がついた。おもしろがって、今度は読むことを推奨してくる。以来、ムルがテーブルにいても怒鳴らなくなった。
アブラハム先生には、声を張りあげて本を読む癖がある。そんなときムルは、本をのぞいては声と文字とを見くらべた。こうしてムルは、読むことを覚えたのだった。
やがてムルは、書くという猫にとって大変困難な技術も身につけていく。そうして自分自身の思想を、忘れずに書きとめておこうと思い立つが……。
猫のムルによる自伝。
ムルの誕生から青年時代、修業時代、成年期へと語られていきます。ホフマンは編集者という立場をとってます。本書が特異なのは、猫が書いた、というだけではないところ。
中扉に記された正式タイトルは「牡猫ムルの人生観 並びに 楽長ヨハネス・クライスラーの断片的伝記(偶然の反古紙)」
なんと、ムルの伝記の合間合間に、まったく別の話が入っているんです。
小さなジークハルツヴァイラーという田舎町に、イーレノイス公の架空の宮廷があります。
イーレノイス公はもとはといえば、ちんまりした小国の統治者でした。大公国に合併されて私人となりましたが、気分はそのまま。ごくごくささやかな宮廷をジークハルツヴァイラーに設けて暮らしてます。
そんな宮廷で異彩を放つ明星が、35歳の寡婦であるベンゾン顧問官夫人。娘ユリアは、イーレノイス公の娘ヘドヴィガーと仲良しです。
おなじように勢力があり、おなじように口がきけて、公家と非常に親しい間柄の一風変わった男が、余興係長で魔術師のアブラハム師。
ヨハネス・クライスラーは、このアブラハムの親友の息子です。
ヨハネス・クライスラーは大公のところで楽長を務めていたのですが、嫌になってアブラハム師を頼ってジークハルツヴァイラーにやってきます。ちょっと変わった人でアレコレ起こります。
ヨハネス・クライスラーのパートは、群像劇です。
本書は全2巻ですが書かれることのなかった第三巻で、ムルとヨハネス・クライスラーとの絡みがあったらしいです。
ムルがヨハネス・クライスラーをどう評価したか。読んでみたかったです。
2025年10月09日
タッド・ウィリアムズ(平野英里/訳)
『テイルチェイサーの歌』ハヤカワ文庫FT
はじめ地球は闇に閉ざされていた。
永遠の夜を追放した猫の名は、ミアスラー・オールマザー。
オールマザーは、ハラール・ゴールデンアイとフェラ・スカイダンサーを産んだ。ゴールデンアイとスカイダンサーが多くの仔を産みだし、こどもたちは原始の世界を覆っていた森の中で育てられた。
なかでも特別なのは〈初代の3兄弟〉だ。
ヴィラール・ホワイトウィンドは、猫として最高の速さと強さを誇った。タンガルー・ファイアフットは時そのもののように賢かった。しかし、次男であるグリズラズ・ハートイーターには、兄弟猫に匹敵できるだけの素質がない。
ねたんだハートイーターは、強大な獣トマルクムに憎しみを注ぎこむ。そうしてトマルクムに猫族を攻撃させたが、ホワイトウィンドに退治された。
ハートイーターはどことも知れぬ地下に姿を消した。今でも地下にひそみ、地上の世界へ戻ることを切望しているという。
一方、勝利したホワイトウィンドも、トマルクムとの激戦での負傷が原因で死んだ。ゴールデンアイは悲しみのあまり、天上のオールマザーの胸にのがれた。ファイアフットは心痛のあまり宮廷を去り、スカイダンサーは復讐を誓った。
〈初代の3兄弟〉をめぐる神話は今も語り継がれている。
フリッティ・テイルチェイサーは、生まれて9ヶ月になる〈集会場〉に属する猫。意中のハシュパッドと求愛のダンスをしたが、それ以来、ハシュパッドは姿を消した。すみかには争った形跡もなく、もぬけの殻。
このところ、同じような問題が多発していた。ふいに猫たちがいなくなってしまう。その数が異様だった。
〈集会場〉の猫たちは話し合うが、なんの解決策もでてこない。
ひとまずハラール宮廷に代表者を派遣し、猫の女王に相談することを決めた。3匹の猫が選出されるが、若いテイルチェイサーは選ばれない。
テイルチェイサーは憤慨していた。長老猫たちは、ハッシュパッドのことをまるで気にもしていない。自身でハシュパッドを探しにいくことを決意するが……。
猫の神話にまつわるファンタジー。
ひとりで旅立ったテイルチェイサーですが、跡をつけてきた仔猫パンスクィック、途中で出逢った頭のおかしな猫イートバックスが旅の仲間になります。向かうのは、けっきょくハラール宮廷。情報が集まるところですし。
道中で襲われたり、ハラール宮廷に到着したけど〈集会場〉
冒頭に語られる〈初代の3兄弟〉の神話は、猫族の生活に密接してます。ハラール宮廷を開いたのはハラール・ゴールデンアイでしょうし、テイルチェイサーを助けてくれるファースト・ウォーカーの一族は、タンガルー・ファイアフットといっしょに走りまわっていた猫族の子孫であることを誇りにしています。
なお、猫族の名前には3つ、心の名前、顔の名前、しっぽの名前とあります。
心の名前はごくごく親しい人にしか教えない特別なもので、フリッティがそれに当たります。テイルチェイサーというのは顔の名前で、長老が名づけた対外的なもの。しっぽの名前は内側から湧き出るもので、知らないままに一生を終えることもあるもの。
11年ぶりの再読で、記憶があいまいなまま、テイルチェイサーの冒険をハラハラドキドキしながら、ときにはキュッとなりながら読みました。
歌い語り継がれてきた神話のように、テイルチェイサーの冒険も子孫たちに受け継がれていくのでしょうね。そのようすが目に浮かぶようです。
2025年10月15日
ソムトウ・スチャリトクル(冬川 亘/訳)
『スターシップと俳句』ハヤカワSF文庫580
〈千年期大戦〉と悪疫の広がりにより、世界は終末を迎えていた。
リョーコは、ジャパンのイシダ大臣の娘。ジャパンでは、悪疫はまだそこまで増えていない。政府もあり、終末大臣タカハシ、慰謝大臣カワグチ、生存大臣イシダによる三頭政治がしかれていた。
リョーコは父に命じられ、ちっぽけな漁船に乗ってハワイへと向かっている。海洋は放射性の毒物によって沸きかえり、残されている船は多くない。
船酔いがようやくおさまってきたころ、海がわれて口をひらき巨大なクジラが現れた。驚くリョーコにクジラが話しかけてくる。テレキネシスによって音波をつくっているのだという。
リョーコはクジラから、6ヶ月後、大臣をみんなつれてヨコハマ港まで来るように頼まれた。かれらが建造中のものについて議論したいから、と。リョーコは父がしていることをなにも知らない。
一方ハワイでは、日系のジョッシ・ナカムラがハワイ脱出を目論んでいた。
ジョッシはもうすぐ30歳。幼いころ、噴火からの避難民としてヒロ・ヒルトンに移送され、そのまま暮らしている。
ハワイにあるのは、焼け焦げたビルディングや、戦争の信じがたい地獄の火にとけた砂浜くらい。それから、奇人たち。余分のうでのある蜘蛛人、最小限の生体器官しか持たない菜人などなど多種多様な奇人たち。
かれらは狩られホステルに集められる。毎日たくさんの奇人が死んでいく。ジョッシが生活できるのは、かれらの世話をする仕事があるからだ。
避難民となったあの日、ジョッシの弟ディディが生まれた。まったくしゃべらず、ジョッシは知恵遅れだと考えている。
実は、ディディには秘密があった。すべてを理解しているが、あえて話さず、白痴のふりをしているのだ。
ある日、ジャパンから観光団がやってくる。ジョッシの仲間がいうには、ジャパンには悪疫がなく、都会だって電気だってマクドナルドだってあるのだという。ジョッシは、接待されている娘に反感を覚えてしまう。
ジョッシは船長を買収し、ディディをつれてジャパンへと渡るが……。
世紀末ジャパンのSF。
要所要所で、芭蕉の句が使われてます。
クジラがリョーコとコンタクトをとったのは、たまたま受信できるのがリョーコだったから。ですが、コンタクトの相手が日本人だったのには意味があります。
クジラは知的な異種属で、日本人と関係があります。クジラがもたらした情報に日本人たちは恥じ入って、自殺に拍車がかかっていきます。
作中では「日本」ではなく「ジャパン」と訳されてますが、あえてしているのだと思います。かなりの荒唐無稽さ。確信的に架空国家を仕立てたのだと思います。
なお、スチャリトクルは日本への滞在歴があります。
よく知っているうえでの謎国家。なかなかおもしろいです。
《ファーシーアの一族》
主に遠視者(ファーシーア)王家の血筋に現れる〈技〉という能力は、どれほど離れていようとも他者の心に接触することができる。また、それより古く〈気〉と呼ばれる魔法もある。獣に対するもので、蔑まれ、人に知られないよう気をつかう。
フィッツ=シヴァルリ・ファーシーアは、六公国の第一王子シヴァルリの私生児。〈技〉は使える状態にないが、〈気〉で秘かに狼〈ナイトアイズ〉との絆を得ている。
六公国では、私生児というのは歓迎されない。フィッツの存在が明らかになってシヴァルリは失脚し、世を去った。代わって第二王子ヴェリティが継ぎの王となったが、第三王子リーガルは王位を諦めていない。
このころ海に面する4地域は、赤い船団に襲われ甚大な被害を出していた。シュルード王は病がままならず、赤い船団への対策もつきた。ヴェリティは、伝説と化した旧きものの助けを求めようと旅立つ。
残されたフィッツは継ぎの王妃ケトリッケンを助けようとするが、巧妙なリーガルの策略に絡めとられてしまう。ヴェリティの悲報がまことしやかかに伝えられ、シュルード王とケトリッケンを宮廷から逃がす作戦も失敗。シュルードは亡くなり、ケトリッケンは行方不明となり、フィッツは殺されてしまった。
王位を手に入れたリーガルは、沿海公国を放棄した。脅威の赤い船団は内陸には進出していない。搾りとれるだけの財産を奪い取って、内陸のトレイドフォートへと遷都したのだ。
そのころフィッツの遺体は、仲間によって墓から掘り起こされていた。死の直前にナイトアイズに魂を移していたフィッツは蘇生に成功する。
フィッツは、ヴェリティの〈技〉による声を聞いた。寒そうで疲れており雪があり森らしいが、そこがどこなのかは分からない。山の王国のさらに向こうで古い地図があるにはあるのだが、はっきりしないのだ。
フィッツは自分はどうべきか考える。
一番にやりたいことはリーガルへの復讐だ。ナイトアイズと共に、トレイドフォートへと旅立つが……。
骨太ファンタジー。
3部作の最終巻。
フィッツの蘇生までは前巻で語られていた出来事で、なかば狼のようになってしまったところから人間に戻り、復讐のために旅立ちます。
一足飛びにトレイドフォートに到着することもなく、道中いろいろあります。それからヴェリティのもとに赴くことになりますが、それもいろいろあります。それらの「いろいろ」が、とにかく濃厚。
もちろん最終巻ですから、これまで積みあげられてきた謎の数々は解決します。
海からくる富を無視するリーガルの態度の謎も分かりましたし、赤い船団の目的も判明し、旧きものの正体も明らかになりました。語り手である未来のフィッツがどういう状況なのか、不思議に思っていたのも納得できました。
新たな謎もあるにはあるのですが、きちんとまとまった印象。
文庫とはいえ分厚い本がシリーズで6冊。読んでよかったです。