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2023年の記録
目録
 
 
 
 
 5/現在地
 
 
 
 
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このページの本たち
ウサギ料理は殺しの味』ピエール・シニアック
水源』アイン・ランド
我ら死者とともに生まれる』ロバート・シルヴァーバーグ
塩と運命の皇后』ニー・ヴォ
スウェーデンの騎士』レオ・ペルッツ
 
ロンドン・アイの謎』シヴォーン・ダウド
僧正殺人事件』S・S・ヴァン・ダイン
地底旅行』ジュール・ヴェルヌ
時ありて』イアン・マクドナルド
ダーウィンのドラゴン』リンゼイ・ガルビン

 
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2023年06月14日
ピエール・シニアック(藤田宜永/訳)
『ウサギ料理は殺しの味』創元推理文庫

 セヴラン・シャンフィエは、調査というものに引かれて警察官になった。ところが、勤務評定が悪いうえに不祥事を起こし、40歳で失業してしまう。それまでの警官の気分を消すこともできず、私立探偵になった。
 現在シャンフィエは、ポンコツの車でシャラントに向かっている。少なくとも明日の朝までには、シャラントに着かなければならない。そうでなければ、事務所のボスからクビにされてしまう。
 車が故障したのは、田舎町を通りすぎたところだった。ガレージの主人がいうには、修理に4〜5日かかるという。シャンフィエはその町での滞在を余儀なくされてしまう。
 このとき町では、殺人事件の話でもちきり。
 最初は10月25日木曜日。19歳になる女の子が絞殺死体で発見された。
 次は11月1日木曜日。やはり若い女性が殺された。どちらの事件でも、被害者のかたわらには扇が置いてあった。
 そして迎えた、11月8日木曜日。
 シャンフィエは、レストラン〈3本のナイフ(オ・トロワ・クトー)〉で夕食をとった。一品料理はなく、コースのみ。味を心得ているという評判の店で、町のお歴々が集まっている。
 シャンフィエは、狩人風ウサギ料理に舌鼓を打つ。実は、オーナー・シェフのガストン・カントワゾーは、ウサギ料理が大嫌い。作りたくないのだが、作らねばならない事情があるらしい。
 この日も、木曜日の殺人事件が発生していた。小公園の中でまたひとり、絞殺死体となったのだ。扇は、死体からかなり離れた公園入口にあった。
 警察の捜査は暗礁に乗り上げている。
 11月15日木曜日。
 またもや失業したシャンフィエは、独自に事件を調べる気でいる。そんなシャンフィエにカントワゾーは、一通の手紙を見せた。
 夕食のメニューに狩人風ウサギ料理を載せるな。そうすれば、この町で殺人は起こらない。
 不器用に貼られた活字の手紙をカントワゾーは、いたずらだと一蹴した。そのため警察には届けでず、すっかり打ち解けたシャンフィエに見せたのだ。
 狩人風ウサギ料理を食べながら、シャンフィエはこの手紙を調べてみようと考えるが……。

 殺人をめぐるフレンチ・ミステリ。
 田舎町といっても、デパートのような大きな店が2軒あります。日本とは感覚が違うのでしょうね。ただ、人と人の繋がりは田舎を思わせます。
 ある人の行動が別のある人の行動を左右して、その行動がまた別の人の行動を……と次々と連鎖していきます。よそ者のシャンフィエは、この環の中に入ってません。事件の解決にも大した役割を担ってません。
 主人公はシャンフィエですが、群像劇になってます。

 警察官時代のシャンフィエの勤務評定が悪かったのは、性欲過多によるところが大きいようです。シャンフィエに限らず、性欲絡みな設定が多く序盤は辟易しました。性に奔放なお国柄なのでしょうか。


 
 
 
 

2023年06月25日
アイン・ランド(藤森かよこ/訳)
『水源』ビジネス社

 ハワード・ロークが建築家になろうと考えたのは、10歳のときだた。神を信じてはいなかったが地球のことは愛していて、それだけに、この地上の事物の形が好きになれなかった。それを変えたいと思ったのだ。
 ロークは、鋼鉄錬鉄業者だった父を早くに亡くしている。近親者はなく、高校に通いながら建設現場で働いた。苦学生として、スタントン工科大学建築学部に入学した。
 ところが、ロークは3年で大学を退学になってしまう。
 実のところ、大学には失望していた。もはや大学で学ぶべき事はなにもない。ロークの考える建築は、大学が覚えさせようとする建築とは相容れなかったのだ。
 建築物は生き物だ。どこに、どのような目的で、なにをもって作られるか、それらによって形が決まる。その理念があらゆる細部に行き届かなければならない。ロークはそう考える。
 ギリシア人は、大理石で木造建築の構造を複製して神殿を作った。ルネサンス期の巨匠たちは、木造建築の複製をした大理石建築の複製をしたしっくい建築で、また複製した。それを現代は、鋼鉄やコンクリートで複製している。
 ロークは天才だった。ルネサンス様式の邸宅にはなんの興味もない。大昔の建築物をありがたがって模倣を繰り返すことに意味を見出せずにいる。
 大学を去ったロークは、 ヘンリー・キャメロンの設計事務所をたずねた。
 キャメロンは、1880年代にはモダニズム建築の先駆者として引く手数多だった。転機となったのは、1893年のコロンビア万博。人びとが、万博で再現された古代ローマに度肝を抜かれ、白い建築の数々に酔い痴れたのだ。
 建築の世界は古典様式に逆戻り。
 キャメロンは、人びとからそっぽを向かれてしまう。それでも傲慢な態度を改めることはなく、世間から忘れ去られた。今では仕事などほとんどない。
 ロークがたずねたとき、キャメロンの事務所は暗い隠れ家のようだった。ロークは持参した図面を口汚く罵られてしまう。
 ロークはキャメロンのもとで働きはじめるが……。

 政治思想小説。
 1943年に発表され、リバタリアニズム(完全自由主義)に大きな影響を与えたそうで。
 1000ページを越える大長編は、4部構成。
  第1部、ピーター・キーティング
  第2部、エルスワース・トゥーイー
  第3部、ゲイル・ワイナンド
  第4部、ハワード・ローク
 主軸は、天才建築家ロークの生き様。ロークのいる社会や、まわりの人びとにも焦点が当てられてます。

 ピーター・キーティングは、大学時代のロークの下宿先のひとり息子。トップの成績でスタントン大学を卒業し、ニューヨークでいちばんといわれるフランコンの建築設計事務所に入ります。
 世渡り上手のピーターは、注目されることが大好き。上昇志向が強く、姑息な手段でライバルを蹴落としていきます。ロークを恐れる一方で、打ち明け話をしたり、設計で困ったときに頼ったりもします。
 前半の中心人物。

 エルスワース・トゥーイーは、建築評論家。大衆紙〈バナー新聞〉の花形コラムニスト。金に執着がなく、人びとからはいい人だと思われてます。
 実のところ、大衆をあやつるのに快感を覚えており、それだけに、他者を必要としない本物の天才は目障りで、ロークを社会的に抹殺しようと立ちまわります。

 ゲイル・ワイナンドは〈バナー新聞〉の社主。大衆が読みたがるものを提供するのかモットー。そのためには自分の主義主張なんて無視できる人物です。
 本格的な登場は第3部から。第4部でも存在感を発揮し、後半の中心人物となります。

 全編で関わってくるのが、ドミニク・フランコン。ピーターのボスであるフランコンの一人娘。〈バナー新聞〉の記者として活躍する批評家。
 美貌の持主で、心内を見せることはなく、相手を威圧することもあれば、愛想良くすることもあります。かなりひねくれていて、常に斜に構えてます。
 ロークと恋に落ちるのですが、ふつうの展開にはならない。

 とにかく、ロークへの世間の風当たりがきついです。ロークの人当たりの悪さも天才的。
 キャメロンのように才能を見抜く人もいます。そうした人たちがロークに助言をするのですが、聞き入れません。信念があって、こびを売る気はさらさらないんですね、ロークは。
 終盤になっても、どっちに転ぶか分からない、と思いながら読んでました。終わってみれば、その展開が必然に思えてしまうのだから不思議です。


 
 
 
 

2023年07月03日
ロバート・シルヴァーバーグ(佐藤高子/訳)
『我ら死者とともに生まれる』早川書房

 死を意識させる、1970年代の中篇集。

「我ら死者とともに生まれる」
 ホルヘ・クラインの妻シビルが死んだ。シビルは遺言で、再生を依頼していた。ホルヘは、シビルの遺体が持ち去られるのを見送ることしかできない。
 死者は、自ら選んだ特殊地区の壁の内にひきこもっているもの。他とまじわらず、死者の街の外で見かけることはあまりない。
 あれから2年。シビルからはなんの連絡もない。ホルヘはシビルを取り戻したいという未練でいっぱい。
 シビルがザンジバーに向かっていると聞き、ホルヘも向かうが……。

 ネビュラ賞受賞。
 中篇なので、死者がどう再生するのかとか、社会の変容とか、細々したことはなし。不作法と表現されるホルヘのストーカーぶりが、すごいです。生きる死者となり、感覚が変わっているシビル視点からも語られます。 

「予言者トーマス」
 今年は運命の年だ。啓示の瞬間は近い。
 トーマスは〈平和の使徒〉を名乗り、〈信仰改革運動〉提唱していた。トーマスにはカリスマがある。それがために、予言者として担ぎ上げられたにすぎない。
 実際に運動を率いているのは、サウル・クラフトだ。小柄でひ弱そうな見た目とは裏腹に、強烈な信念を抱いている。
 クラフトに指示されて、トーマスは世界各地で同時刻に一斉祈祷集会を開く。トーマスは跪き、主に〈徴(見知るし)〉を乞い願う。
 奇跡が与えられるが……。

「ゴーイング」
 2095年早春。
 ヘンリー・スターントは、突然〈往生〉することを決意した。
 人々の寿命が延びた結果、誰かが産まれるためには誰かが死なねばならなくなった。スターントは、誰かのために場所を譲ることを決意したのだ。
 スターントは、あと少しで136歳。すでに仕事は引退し、整った環境での平穏な生活には満足している。健康で、まだまだ生きられるが、退屈してもいた。
 意を決して〈人生完成事務局〉に連絡を入れるが……。


 
 
 
 

2023年07月04日
ニー・ヴォ (金子ゆき子/訳)
『塩と運命の皇后』集英社文庫

《シンギングヒルズ》の中篇集
 チーは、シンギングヒルズ大寺院の聖職者。戴勝(ヤツガシラ)のオールモスト・ブリリアントを連れている。歴史を記憶するネイシンの一羽だ。
 チーの使命は、記憶すること、書き留めること。時には、目の前の物事の意味が分かるのに何年もかかることもある。それでも記録さえあれば、後から判断することができる。
 何よりも大事なのは、的確さだ。権力者に話しかけるように、市井の人々にも話しかけなければ。普通の人々のことを覚えていなければ、決して偉大な人々のことなど覚えていられないのだから。

 アジア風味のファンタジー。
 舞台はアン帝国。現在進行形で記録していくのではなく、聞き取りなどを通じて、すでに起こったことが明かされていくスタイルです。
 ニー・ヴォはアメリカ人ですが、ルーツはベトナム。中華風とは少々異なる世界が広がっていました。

「塩と運命の皇后」
 カイリンに滞在していたチーは、インヨーの時代に封印された場所がすべて解放される決定を知った。魔法で閉じられていた〈深紅の湖〉はさほど遠くない。略奪される前に記録を取ろうと意気込むチーだったが、すでにひとりの老女がいた。
 姓はスン。前歯が長く、幼いころよりラビットと呼ばれてきたという。ラビットは、インヨーに仕えていた侍女だった。
 ラビットが都に送られたのは5歳のとき。宮殿で勤勉に働き、10歳にして後宮の掃除係に昇進した。北の国から新しく〈塩と運命の皇后〉インヨーが迎えられたのは、そんなときだ。
 インヨーが追放されたとき、ラビットは13歳。誠心誠意尽くすラビットは、インヨーに気に入られていた。ラビットは皇后に従い〈深紅の湖〉にやってきた。
 ラビットは、チーが手にとる品々の思い出を語るが……。

 ヒューゴー賞受賞作
 徐々に明らかにされていくスタイル。〈塩と運命の皇后〉はなぜ追放されたのか。その後、なにが起こったのか。
 実は、序盤でかなり多くのことが語られてます。いかんせん世界設定がまだつかめていない段階で、よく分からないままに読んでました。やがてはすべてがつながります。
 読み返して、そういうことだったのか、と。
 中篇にまとまってますけど、大長編にもなりそうな歴史のうねりが感じられました。これがデビュー作とは。 

「虎が山から下りるとき」
 チーは、峠を越えて、南のケフィに行くところ。古代象(マンモス)偵察隊のスーウィが、番小屋まで案内してくれるという。
 スーウィの古代象ピルークは王室所有のものよりは小柄。それでもチーは、初めての古代象乗りに感嘆の念が消えない。
 番小屋が見えてきたところで、スーウィが異変に気がついた。見張り番のバオソーが虎に倒され、食べられようとしている。3頭の虎が、意識なく倒れたバオソーを囲んでいた。
 虎は群れで行動する動物ではない。複数で狩りをするはずがない。チーは、彼らがただの虎ではないことを悟る。
 スーウィはバオソーを助け、一行は納屋に逃げ込んだ。小型の古代象が一頭だけでは、虎を追い払うことはできない。助けがくるとしたら、明日の午後だろう。
 一番大きな虎が声をあげて笑いはじめた。それを聞いたチーは虎に話しかける。女王陛下、と。
 人間の女に変身した虎は、たしかに女王だった。名は、ホー・シン・ローン。猪背山脈と緑山に至る辺境の女王だという。
 シンギングヒルズには、虎たちの物語がある。チーは、虎のホー・ティー・タオと人間の女学生デューの結婚の話を語ることになるが……。

 チーが知っている物語を、事実を知る虎たちが訂正していくというスタイル。ひとつの出来事を、異なる視点で見る楽しみがあります。また、スーウィが、戦う者としては虎に同調することもあるのが、なるほど、と思わせます。
 シン・ローンは敬意をあらわしたチーを認めたものの、食べる気満々。チーの目的は時間稼ぎですが、虎の語る物語にも興味を抱いてます。 
 なお、本作では事情によりオールモスト・ブリリアントは不在です。


 
 
 
 

2023年07月10日
レオ・ペルッツ(垂野創一郎/訳)
『スウェーデンの騎士』図書刊行会

 泥坊は、絞首人の手を逃れた宿無し。シレジアを歩いている。もはや夜歩きの辛さは身に堪えない。
 道連れは、クリスティアン・フォン・トルネフェルト。若い貴族のクリスティアンは、寒さにもひもじさにも慣れていない。
 クリスティアンの一家には、逼迫のため故郷スウェーデンを後にした過去があった。今でもクリスティアンの心はスウェーデンにある。
 それで、スウェーデン王を馬鹿にした大尉の面を殴った。軍事裁判で死刑を宣告されたクリスティアンは、脱走するしかなかった。シレジアを抜け、国境を越え、スウェーデン王のもとに参ずるつもりだ。
 一方の泥坊は、僧正領に赴くことを考えている。誰もが僧正を〈悪魔の大使〉と呼ぶ。そこには、鍛冶場や砕鉱機、石切り場や溶鉱炉や石灰窯があった。
 好き好んでいく者はいない。泥坊も過酷さは体験済みだ。だが、死を宣告されている者にとって、残された最後の隠れ家だった。
 ふたりは粉挽き場にたどりつく。明かりがともされ、部屋は暖められている。食事まで用意されているものの、誰もいない。
 泥坊は、粉屋が死んだことを知っている。生きるのに必要なものまで差し押さえられて首を吊った。噂では、年に一度、死んだ粉屋が墓から帰ってきて、借金を1ペニヒでも返そうと夜通し風車を回すという。
 事情を知らないクリスティアンは、貴族の鷹揚さを発揮する。自分の名において食事をふるまったのだ。
 気がつけば、炉辺の長椅子に死んだ粉屋が腰かけていた。粉屋は、生き返って僧正さまの御者を勤めているという。クリスティアンがスウェーデン王のもとに行くには、飲み食いした分を払わねばならない、と。
 泥坊はクリスティアンに頼まれ、代父がいるというクラインロープの屋敷に向かう。ところが、クリスティアンの代父はすでに亡くなり、うら若い、人を疑うことを知らないマリア・アグネータが女領主となっていた。
 領主に面会した泥坊は、いい土地が無駄に使われている理由をさとる。この天使のように美しい少女の信頼する差配人が、財産を横領し、詐欺を働いているのだ。
 泥坊はクリスティアンの頼みを伝えることができなかった。そうすれば、慈悲深いマリア・アグネータは自分が苦しくても金を用立ててくれただろう。
 手ぶらで粉挽き場に帰った泥坊は、自分がクリスティアンとなり、本物のクリスティアンを僧正領に送るように画策するが……。

 なりすまし譚。
 時代は、北方戦争(1700〜21年)のころ。
 死んだ粉屋とか、効果があるおまじないとか、天使がでてきたり、かなり幻想寄り。

 最初の「序言」で、マリア・クリスティーネ(旧姓フォン・トルネフェルト)による回顧録が紹介されてます。
 6歳くらいのとき、スウェーデン王のために出征して帰らぬ人となった父クリスティアン・フォン・トルネフェルトが、夜間にこっそり会いにきてくれていた、というエピソード。最後に会った数日後、3週間前に亡くなっていたという知らせがあったが、父の死を信じられなかった、と。
 その謎についての物語です。
 マリア・クリスティーネの回想録は、ある意味ネタバレです。ですが、あらかじめ分かっている状態で、すべてがあるべきところにピタリとはまったときの爽快感といったら。
 すごい結末でした。


 
 
 
 

2023年07月13日
シヴォーン・ダウド(越前敏弥/訳)
『ロンドン・アイの謎』東京創元社

 12歳のテッド・スパークの友達は3人。ママとパパと担任のシェパード先生だ。姉のカットは意地悪ばかりするし、話をさえぎるから友達とは言えない。
 テッドは、複雑なことを覚えるのは得意だ。体操服の袋とか、ちっぽけなことは忘れてしまう。記憶に穴があいていて、そこからいろんなものがこぼれ落ちてしまう。
 テッドは仕組みを考えるのが好きで、天気に興味をもっている。理解するのがむずかしい変動要因がおもしろい。大きくなったら気象学者になって、いろんなことを予測して人類を滅亡から救いたいと思っている。
 ある日スパーク家に、グロリアおばさんとその息子で13歳のサリムがやってきた。マンチェスターで暮らしていたふたりは、グロリアおばさんの仕事の都合でニューヨークに行くことになっている。出発する前にロンドンに寄ったのだ。
 サリムは建築家になるのが夢らしい。高層ビルが好きで、ロンドン・アイに行きたいという。
 ロンドン・アイは、ウィーンの観覧車より高いのが自慢だ。正確には観覧車ではなく、自転車の車輪に似た設計になっている。
 人気があるロンドン・アイは、チケット売り場から混んでいた。チケットを買うのに30分、カプセルにのって一周するのに30分。大人たちはカフェで待ち、テッド、カット、サリムの3人がチケットの列に並んだ。
 そのとき、知らない男の人が話しかけてきた。自分が持っているチケットを1枚くれるという。もうすぐのれるところまで並んでいたけれど、閉所恐怖症で、やっぱり無理だと思ったらしい。
 テッドは、知らない人と話したり何かもらったりしてはいけない、と言われていたことを思い出す。動揺のあまり、手がぶるぶる震えてしまう。
 カットは、チケットをもらうことに決めた。大人たちはロンドン・アイに興味はなく、テッドもカットも経験済みだ。すぐにサリムだけのれるなら、お金も時間も節約できる。
 テッドはカットと一緒に、サリムののったカプセルを目で追った。ところが、サリムがカプセルから出てこない。携帯電話もつながらず、大騒ぎになってしまう。
 サリムはどこにもいなかった。責任を感じたカットが、自分たちでもサリムを探そうと言い出し、テッドも協力するが……。

 児童文学のミステリ。
 テッドの一人称で展開していきます。テッドは、作中ではなんらかの症候群である旨の説明にとどまってますが、訳者の方は、おそらくアスペルガー症候群(自閉スペクトラム症)だろう、と。
 テッドのセリフでもっとも多いのが「んんん」。手がぶるぶる震えるだけでなく、ひらひらさせたりもします。本人もそうしたいわけではなく、腕をくんで手が動かないようにがんばってます。
 テッドの両親は、なんでもないときにはテッドの症候群を理解し、真摯に向き合う思いやりのある人たちだと思います。それが非常時になると、ふだん隠しているであろう気持ちが出てしまうのが、仕方ないとはいえ……。
 冒頭でテッドは、カットのことを友達に入れてません。そのカットが、テッドの頭の良さを再発見して認めるのが印象的でした。ふだん関わっていないからこそ、というのもあるでしょうね。

 サリムになにが起こったのか。
 きちんとミステリになってます。事件があり、推理があり、読者にも情報が与えられています。テッドをとりまく周囲の人たちも読み応えありました。
 大絶賛されているのも頷けます。ただ、児童文学なので、やはりテッドと同年代の人たちのための物語かな、とも思います。


 
 
 
 

2023年07月18日
S・S・ヴァン・ダイン(日暮雅通/訳)
『僧正殺人事件』創元推理文庫

 ファイロ・ヴァンスは、アマチュア探偵だった。
 親友のジョン・マーカムがニューヨーク州地方検事になり、たびたび相談を持ちかけられている。そのたびにヴァンスは、自分の判断に寄せるマーカムの信頼に応えてきた。
 その日、マーカムから特異な殺人事件について聞いたヴァンスは、マザー・グースを思い出していた。
 死んだのは、ジョーゼフ・コクレーン・ロビン。アーチェリーの矢で射殺されていた。死ぬ前のロビンは、レイモンド・スパーリングといっしょにいたらしい。
 被害者の名からは駒鳥(コック・ロビン)を、スパーリングからは雀(スパロウ)を連想させる。まるで、マザー・グースの有名な伝承童話『駒鳥の死と埋葬を悼む挽歌』の一節のように。そこでは、スズメが弓と矢でもってコック・ロビンを殺している。
 発見したのは、バートランド・ディラードだった。現代の数理物理学者としては屈指の存在だ。
 ディラードはすでに教壇を退いており、リヴァーサイド・ドライヴ近くの邸宅に住んでいる。一緒に暮らしているのは、姪のベル・ディラードと、養子にした愛弟子のシガート・アーネッソン。執事と料理人もいる。
 ベルがアウトドア・スポーツに熱心で、リヴァーサイド・アーチェリー・クラブの発起人でもあった。ロビンが発見されたのは、ディラード邸の側庭につくられたアーチェリーの練習場だ。
 ベルとロビンは親しい。スパーリングも令嬢を口説いているひとりだという。誰の目にも、スパーリングの犯行のように見えた。
 そんなときディラード邸に、犯行をにおわせる手紙が届く。手紙はタイプで、マザー・グースとの関連を仄めかされていた。署名には、僧正(ザ・ビショップ)とあった。
 捜査が進まない中、第二の殺人事件が起こるが……。

 アマチュア探偵ファイロ・ヴァンスものの第四作。
 証言者たちがそれぞれに隠し事をしていて、なにを隠しているのか、なぜ隠しているのか、ヴァンスがさぐっていきます。

 語り手は、ヴァンスから〈ヴァン〉と呼びかけられている人物。長年の友人で、法律顧問、財産管理人であり代理人、法律事務所を辞めて、ヴァンス専属になっているとか。この謎の人物の一人称で、回想という形になってます。
 語り手が、まるで空気。そこにいる必然性がまるでないし、いていい根拠もなにもないけれど、誰も指摘しない。確実にそこにいるのに、ヴァンスにしか見えていないかのよう。
 ファイロ・ヴァンスのもうひとつの人格のようでした。そういうオチのミステリも読んだことがありますが、本作はそういう話ではないです。
 シリーズを順番に読んでいれば、もう少し事件に集中できたのかもしれません。惜しいことをしました。


 
 
 
 

2023年07月21日
ジュール・ヴェルヌ(朝比奈弘治/訳)
『地底旅行』岩波文庫

 アクセルは、オットー・リーデンブロック教授の甥だった。
 リーデンブロック教授は、ヨハネウム学院で鉱物学を担当している。背が高く痩せていて、待つということを知らず、自然よりももっとせっかち。断固としており、いくらか横暴に振る舞うこともある人物だった。
 リーデンブロック教授は、新たに入手した古本にご満悦。700年前のアイスランドのもので、表紙も背も粗末な子牛革で装丁したらしい四折判だった。その本に、1枚のひどく汚い羊皮紙が挟まっていた。
 わけのわからない文字が何行も並んでいる。本と同じく、ルーン文字なのは間違いない。
 リーデンブロック教授は、多くの言語に通じる語学の達人だ。ルーン文字によるアイスランド語も読める。ところが、羊皮紙は暗号で書かれているらしく、読むことができない。
 文字の中には、14世紀になって加わったものも混ざっている。本の方を見てみると、仮扉の裏ページに、アルネ・サクヌッセンムの名前があった。
 サクヌッセンムは16世紀の学者で、有名な錬金術師。なにか驚くべき発見をして、暗号のなかに隠したのだろう。リーデンブロック教授は解読しようとするが、なかなかうまくいかない。
 アクセルは、偶然から暗号の鍵を見つけた。文書の内容に驚愕し、リーデンブロック教授に言い出すことができない。
 サクヌッセンムによれば、アイスランドのスネッフェルス火山の火口のなかに降りると地球の中心にたどり着くという。そのためには、7月1日の前に、そこにいなければならない。そのとき山の峰の影が、どこの火口なのか指し示してくれる。
 アクセルの考えでは、リーデンブロック教授がこのことを知ったら、真偽などそっちのけで地底に行きたがるに決まってる。そのときには自分も一緒だ。結婚を約束した女性がいるというのに、生きて帰れるかもわからない冒険など行きたいものか。
 アクセルの懸念をよそに、リーデンブロック教授は食事もとらず、暗号解析に熱中していた。家中のものが断食につき合わされ、さすがにアクセルもまいってしまう。
 アクセルはやむなく暗号の鍵を教え、予想どおり、リーデンブロック教授はすぐに旅行に出ると言い出した。アクセルも一緒に、アイスランドへと旅立つが……。

 地底旅行についての物語。
 発表は1864年。
 早々に地底に入るかと思ってました。すんなりと展開していくわりに、スネッフェルスまでがけっこう長いです。フランスからアイスランドに行くのだけでも、当時は冒険だったんでしょうねぇ。


 
 
 
 

2023年07月24日
イアン・マクドナルド(下楠昌哉/訳)
『時ありて』早川書房

 エメット・リーは、古書のディーラー。
 主に戦争物を扱っている。専門分野は、第二次世界大戦だ。
 都市開発のために黄金の頁書店が閉店し、在庫がまとめて売りに出された。雑多な本が、プラスチック・ボックスの中、架台の上に積みあげられている。
 リーは、獲物の山のなかに、毛色の違う本があるのを探知する。
 それは、未知の詩集。タイトルは『時ありて(タイム・ワズ)』。1937年5月、イプスウィッチ、著者名は、E・Lとだけある。
 本には紙が挟まっていた。トムからベンに宛てた手紙だ。内容から場所と時期の見当をつけたリーは、愛書家や戦争史のグループに向けてネットに投稿してみた。
 リーの呼びかけに、ソーン・ヒルドレスから連絡が入る。曾祖父の遺品から、トムとベンの名前を知っているという。
 リーはソーンから、ふたりの写真を見せてもらうが……。

 時間SF。
 トムとベンの写真がいくつか見つかるけれど、ふたりはどの年代でも歳をとっていない、という類いの時間もの。
 リーの視点の他、トムの視点でも語られます。
 重要な役割を果たしているのが詩集であるためか、物語そのものも詩のような静けさがありました。真相が明らかになって、さすが技巧派と呼ばれるだけはあるな、と。


 
 
 
 

2023年07月25日
リンゼイ・ガルビン(千葉茂樹/訳)
『ダーウィンのドラゴン』小学館

 シムズ・コビントンは、ビーグル号のキャビンボーイ兼バイオリン弾き。イギリスを出航して4年。現在は、チャールズ・ダーウィンの助手をつとめている。
 ガラパゴス諸島のアルベマール島で標本採取をしているとき、天気が急変した。シムズとダーウィンはあわてて手こぎボートでビーグル号へと戻ろうとする。ところが、ダーウィンが海へとほうりだされてしまった。
 思わず海に飛びこんだシムズは、なんとかダーウィンを助ける。その一方、自身は海の底に引きずりこまれてしまった。
 流されながらも必死に水面にでるシムズ。たまたまたどりついた岩にしがみついた。
 そこがどの島なのか、まったくわからない。少なくともガラパゴス諸島のどこかとしか。黒々とした溶岩の大地で、これまでに見たどれより大きな火山がそびえていた。
 アルベマール島もビーグル号も舟も、どこにも見当たらない。海岸にたどりついてほっとした気持ちは、たちまち消えてしまった。
 シムズは、なんとか冷静になろうとする。みんながきっと探しにきてくれる。
 水も食料もないなかシムズは、空飛ぶ怪物におそわれた。わが目をうたがった。大きく縁を描いて頭上を飛んでいるのは、ドラゴンだ。
 必死に逃げるシムズを助けたのは、グリーンのトカゲだった。先のとがったウロコが、首をとりまくようについている。そのウロコは、頭のうしろで襟を立てるようにぱっとひらいた。
 ダーウィンと一緒にいろいろな生物を見てきたシムズだったが、そんなものをつけたトカゲを見るのははじめて。シムズはトカゲに、ファージングと名づけた。目が、真新しいファージング銅貨を思い出させたのだ。
 ファージングは、シムズになにかをしてもらいたいようなのだが……。

 児童書。
 シムズの一人称で、もっとくだけた感じに若々しく語られてます。
 チャールズ・ダーウィンがビーグル号で旅立ったのは、1831年12月27日。5年後、イギリスに帰国しました。革新的なアイデアはすでに芽生えており、その後『種の起源』が発表されます。
 シムズは実在人物。航海のあいだ短い日誌をつけていたのですが、ガラパゴス諸島の探索に空白の時期があり、その空白を利用して書かれたのが本書です。
 もちろん、ドラゴンがいた!は架空。首をとりまくウロコで、エリマキトカゲを想像してしまいましたが、別物です。
 他はかなり史実に沿っているらしいです。そういうしっかりしたところが伝わってきて、安心して読めました。

 
 

 
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