2022年01月26日
マイクル・クライトン(浅倉久志/訳)
『アンドロメダ病原体』ハヤカワ文庫SF208
1967年2月。
スクープ7号がとつぜん安定軌道を離れた。理由は分からない。急遽引き下ろしが決定される。
スクープ計画は、新しい生物兵器を発見するためのプロジェクトだった。人工衛星を地球の周囲で軌道飛行させ、生物を蒐集したのち、それを地表へ回収する。7回目となり、すでに病原体の回収成功への期待は薄らいでいる。
衛星は、アリゾナ州北東部の無人地帯に落とされた。派遣された2人の軍人は信号波をたどり、ピードモントにたどり着く。人口48人の小さな町だ。
町の誰かが衛星の落下を目撃して持ち帰ったのだろうか。軍人たちはそんな推測をしていた。
午後10時を過ぎ、あたりは暗闇に包まれている。ガソリン・スタンドとモーテルの灯まで消えていた。不気味に静まり返っている。
2人が目の当たりにしたのは、人々がそこかしこで死に絶えている光景だった。管制室に報告するが、交信途中に絶命してしまう。
ワイルドファイア警報が出され、学者たちが呼び集められた。
ワイルドファイア計画の提唱者は、細菌学者のジェレミー・ストーン。ノーベル賞を獲得し、政界からは信頼あつい助言者としての権限を与えられている。
ちょうどアメリカは、一国家として世界史上最強の科学的複合体の所有者となったことを認識しはじめているところだった。計画は了承され、秘密裏に研究所が建設された。生物学的緊急事態が発生したときに動員される科学者グループも選定済だ。
こうして呼び集められたのは、ストーンのほかには、臨床微生物学者のピーター・レヴィット、病理学者のチャールズ・バートン、電解化学の専門家で外科医のマーク・ホールだった。
実はストーンにとって、ホールは妥協の産物。内心では、代謝性疾患に経験のある内科医を求めていた。人選のときに国防省とアメリカ原子力委員会からの強い圧力があり、彼らの要求に合致する人材として、ホールに落ち着いたのだ。
研究所に呼ばれたホールは、事件の概要を聞く。
ピードモントでは、あるものは即死し、あるものは静かに発狂して自殺した。生存者は2人。ボロボロの臓器を持つ69歳のピーター・ジャクスンと、まったく健康な赤ん坊だ。
発見された病原菌は、アンドロメダ菌株と名付けられた。空気伝染するが、そのシステムは分からない。
謎のアンドロメダ菌株の研究がはじまるが……。
テクノロジー小説。
17年ぶりの再読。
科学的な危機を正確かつ客観的に記録した報告書、という体裁になってます。そのため主役不在で、あるときはストーンに、またあるときはホールに、また別のあるときは……と中心人物が切り替わっていきます。
通常の小説ではなく、ドキュメンタリーを読む感覚で接した方が楽しめると思います。
主要登場人物に偏りがあるのは時代ゆえ。60年代が舞台なのでそこまで違和感はないものの、現代に書かれていたらどうなっていたかな、と考えずにはいられませんでした。
2022年02月01日
マイクル・クライトン&ダニエル・H・ウィルソン
(酒井昭伸/訳)
『アンドロメダ病原体 −変異−』上下巻
早川書房
1967年2月。故障を起こしたスクープ7号衛星は、予定より早く地表に下ろされた。
回収チームが見つけたときカプセルは、アリゾナ州ピードモントにあった。ピードモントは、人口48名の小さな町だ。生き残ったのは、老人と新生児のふたりだけだった。
調査にあたったのは、高名な細菌学者ジェレミー・ストーン博士がひきいるワイルドファイア研究チーム。そのとき、アンドロメダ因子(ストレイン)が発見された。
ピードモントに広まった初期のAS−1は、その後、突然変異してAS−2となる。人体への害はなくなったが、樹脂分解体となった。気づくのが遅れたために研究所の外へと漏出し、AS−2は地球の大気上層全体に拡散する結果となった。
それから50年。
AS−2の存在を危惧し、〈永遠の不寝番〉計画が立ち上がっていた。〈永遠の不寝番〉はたえず、地球外微粒子に起因するとおぼしき地球規模の異常に目を光らせている。
2013年。
中国の宇宙ステーション天宮一号が、大気圏に再突入して分解した。天宮一号のしていたことは明かされていないが、AS−2の研究であったことは想像に難くない。燃えつきなかった破片が落下した先は、赤道直下のアマゾン奥地だった。
まさにその場所で、異常が感知され、ただちに調査隊が組織される。
調査隊長のニディ・ヴェーダラは、材料科学・ナノテクノロジーの専門家。ナノロボット工学、ナノ生物学の専門家であるソフィー・クライン博士は、国際宇宙ステーションから隊員たちをサポートする。ハラルド・オディアンボは、地球外地質学を専門とする野外科学者。もうひとりの野外科学者ポン・ウーは、元宇宙飛行士で人民解放軍の少佐でもある。
そして、ロボット工学者のジェイムズ・ストーン。
ヴェーダラは、ストーンが参加することを腹立たしく思っている。ストーンはこの任務に必須ではない。おそらく、ワイルドファイア研究チームのストーン博士の子息であるために呼ばれたのだ。
インドの不可触民の出身であるヴェーダラは、血統を嫌っていた。
一行は、護衛に守られ、アマゾン奥地の現場へと向かうが……。
テクノロジー小説。
『アンドロメダ病原体』の、遺族公認の公式続編。
作中で前作の出来事が書かれてます。そのため単独でも読めますが、ネタバレしているわけですから、どうせなら先に読んでおいたほうがいいかな、と思います。
前作では、主要登場人物に偏りがありました。今作では時代を反映してか、人種や性別に広がりがあります。ありすぎて、わざとらしさを感じてしまうほど。
その一方で生い立ち的には被りがち。逆境をバネにする人ばかりな印象が残ってしまいました。
ドキュメンタリーっぽくしてあるとか、ストーンの立ち位置とか、前作を意識したのはいいものの、もっと自由に書いたほうがうまくいったんじゃないか、と思わずにいられませんでした。
2022年02月05日
ウィリアム・ゴールディング(平井正穂/訳)
『蠅の王』集英社文庫
ラーフは、ひとりでジャングルの中にいた。
飛行機が攻撃され、操縦士が、乗っていた少年たちを島に降下させたのだ。飛行機は火を吹き、胴体は木を薙ぎ払った。その胴体は嵐で沖のほうへ飛ばされたらしく、見当たらない。
ラーフは12歳と数ヶ月。大人がいないことに興奮している。
ラーフが最初に出会ったのは、ピギーだった。ピギーは喘息もちで、3つのときから眼鏡をかけている、肥った少年だった。身体を動かすよりも頭を動かすほうが得意だ。
ラーフはピギーからさまざまな提案をされるが、ラーフは遊びたくて仕方ない。ラーフの父は海軍の指揮官で、休暇がとれたら助けにきてくれると信じているからだ。ピギーのように、死ぬまでここにいるとおびえてはいない。今はまだ。
ジャングルを出ると、海岸になっていた。あたり一面椰子でおおわれている。砂浜には、長く深いプールができていた。
ラーフはプールで遊ぶが、ピギーから、一度みんなを集めて名簿を作るべきだと言われてしまう。
そんなときラーフは、ほら貝を見つけた。はじめはうまく吹けなかったが、次第に音が出るようになり、音を聞きつけた子供たちがあちらこちらから集まってきた。
集まりは集会となり、子供たちはいろんなことを決める隊長がいると言い出す。大人はひとりもここにはいない。自分のことは、みんな自分でしなければならない。
ジャックは、会堂付き合唱隊員のヘッド・ボーイ。合唱隊を率いている。隊長として名乗りを上げるが、子供たちが選んだのは、おちつきがあるラーフだった。
子供たちは集会で、いろいろなことを決めた。
救助をしてもらうために、山頂で烽火をあげたい。小屋も必要だ。食べものは果実がたくさんあるが、肉もいる。
島には豚がおり、ジャックの合唱隊がそのまま狩猟隊となった。
ラーフは集会の結果に満足する。
ところが子供たちは、集会が終わると5分間ばかり働くものの、すぐにいなくなってしまう。ちびっ子たちも、上のほうの子供たちも、泳いだり、果物を食ったり、遊んだりしている。
ラーフは何度となく集会で訴えるも、結果は同じだった。
水平線上に船の姿が見えたときも、烽火は消えてしまっていた。ラーフは怒り、烽火当番を連れ出していたジャックと一触即発の事態となってしまうが……。
無人島の少年遭難もの。
読んでいてイライラしてしまうのですが、それは物語にではなく、登場人物に対して。すぐに楽な方に流されて、後先考えずに遊んでしまうんです。
ラーフでさえ、そうなんです。なにしろ、まだ12歳ですから。
少年たちが漂流したり遭難したりする物語、いくつか読んでます。12歳といえば、他の物語では「ちびっ子」扱いで、保護される対象ですよ。それが、さらに下の子供たちの面倒をみなければならないとは。
このイライラは、子供という存在をきちんと書けている、ということなのでしょうね。
ピーター(ピート)・ガーデンは、カリフォルニア州の地縛者(バインドマン)。〈きれいな青狐〉に所属し、町を賭けた〈ゲーム〉に興じている。
中国の兵器によって出生率は極度に低下した。今では、世界人口は100万〜200万人にまで落ち込んでいる。延命技術は発達しているが事故で誰かが死ぬたびに、ひとりずつ人口が減っていく。
そのうえ人類は、星間戦争にも敗北した。
2095年。
国連とタイタンとのあいだで協約が締結される。タイタンのヴァグは、助言すること、求められた場合に助力を与えることのみに限定されてはいるものの、地球に進出することになった。
こうして地球およびタイタン当局は〈ゲーム〉をスタートさせた。〈ゲーム〉は、権利書のやりとりという経済的な目的はさることながら、交配を促進する生物学的目的をも併せもっている。
ピートは〈運〉に見放されていた。妻であり〈ゲーム〉のパートナーであるフレアとの仲も不首尾に終わって、結婚を解消したところ。しかもピートは〈ゲーム〉で、お気に入りのバークレーをすってしまった。
ピートは、バークレーの権利書を賭けたことを後悔していた。翌日になって、バークレーを巻き上げたウォルター・レミントンにマリン郡の都市3つとの交換を申し出る。ところがウォルターは、ブローカーに渡してしまったという。ソルトレイク・シティと交換の好条件だったから、と。
ブローカーの背後にいたのは、ニューヨーク・シティのジェローム・ラックマンだった。東部を支配しているラックマンは、西部への進出を目論んでいたのだ。
ラックマンは、バークレーのバインドマンとして〈きれいな青狐〉に乗り込んできた。ピートと従来のメンバーは協力してラックマンを迎え撃とうとするが、果たせない。ラックマンは最初の〈ゲーム〉で、もうひとつカリフォルニア州の権利書を手に入れた。
〈きれいな青狐〉のメンバーが戦々恐々とする中、ラックマンが死体となって発見される。〈きれいな青狐〉のメンバーに疑いがかかった。
ピートには、ラックマンが殺害された日の記憶がない。ピートの車の記憶により、バークレーを訪れていたことは分かっている。ラックマンとやりとりがあったかは定かでない。
実は、記憶が完全でない者はピートだけではなかった。〈きれいな青狐〉のメンバーの中で記憶を失っている者が6名もいたのだ。
事件は混沌としていくが……。
近未来SF。
なにが起こっているのか、よく分からないままに読み進めてしまいました。なんでも、プロットが破綻している、と言われているそうです。
ピートは精神を病んでます。
ラックマン殺害事件と6名の利害関係者の記憶の問題だけでも混沌としますが、それ以外にもいろいろあります。サイ能力者組織の警官殺し、ヴァグ同士の派閥争い、人間に化けているヴァグの登場と、なんでもあり状態。
ディックに慣れてないと、まるで読めないと思います。
なお、〈ゲーム〉はブラフ系です。
カードを引いて、その数字だけコマを進めます。数を知っているのはプレイヤーだけで、嘘をついている可能性もあります。
他のプレイヤーから嘘を指摘されて、それが本当に嘘なら、指摘した人のポイントとなります。嘘ではなく正しい数だったらプレイヤーのポイントになります。嘘をついたときに嘘だと指摘されなかった場合もプレイヤーのポイントになります。
心理的な駆け引きが展開される〈ゲーム〉の場面だけでも充分おもしろいです。
1931年。
パリ駅構内に小さなおもちゃ屋があった。たびたび万引き被害にあっていたおもちゃ屋の主人は、ひとりの子供を捕まえた。
ユゴーは、12歳。ひとりでパリ駅に住んでいる。
おもちゃ屋の老人に捕まったユゴーは、大切なノートを取り上げられてしまった。ユゴーは、なんとかして取り戻そうとするが、叶わない。
かつてユゴーは、父と暮らしていた。
ユゴーの父は、時計屋の経営者。古い博物館で、時計の手入れもしていた。ユゴーにも時計直しの腕は受け継がれている。6歳のころには、たいていのものが修理できるようになっていた。
あるとき父はユゴーに、博物館の屋根裏部屋にぜいまい仕掛けの人形があることを教えた。だれも覚えていないからくり人形は、字を書くらしい。壊れているというからくり人形に、ユゴーは興味津々。
ユゴーの父は、ノートにメモを取りながら、からくり人形の修理をした。そんなとき博物館で火事があり、父が巻き込まれて亡くなってしまう。
ユゴーを引き取ったのは、おじのクロードだった。クロードは酒浸りの生活を送っている。パリ駅の片隅に暮らし、駅の時計の面倒をみるのが仕事だ。
ユゴーは学校にも行かせてもらえず、時計の手入れを手伝った。ユゴーがひとりで時計を調整できるようになると、クロードは留守がちになり、とうとう帰ってこなくなった。
保護者がいないユゴーは弱い立場だ。
ユゴーは、クロードの不在を気がつかれないように時計の面倒を続けた。クロードあての給料小切手もとってきた。ただ、小切手をお金にかえる方法は分からない。仕方なく、盗みをして生きのびた。
ユゴーは、焼けて廃墟になった博物館のがれきの中に、あのからくり人形を見つけていた。からくり人形は、クロードの家に持ち帰ってある。部品は、おもちゃを盗んで当てていた。
修理を続けるためには、父の遺したノートがいる。そこに描かれた絵を見なければならない。
ユゴーはノートを取り返そうと、おもちゃ屋の老人につきまとうが……。
児童書。
映画「ヒューゴの不思議な発明 」の原作。
H・アルコフリズバ教授が案内人、という体裁。映画がはじまる前の暗闇、スクリーンに昇る太陽などの視覚的レクチャーがあってから物語は始まります。
上映中の映画をイメージしたらしく、全編黒枠の中に収められてます。絵本のように、見開きサイズの鉛筆画の絵がたくさん使われていて、それらが映画のコマ割りのように展開していきます。徐々にアップになっていく人物とか。
題材は、映画黎明期に活躍した、ジョルジュ・メリエス。初の映画監督でした。実際のスチール写真もたくさんでてきます。
とにかく絵がたくさん。合間に文章がある感じ。
児童書という位置づけですけれど、連続する絵から物語を読み取っていくことになるので、子供向けと思って読むのはちょっともったいない気がします。
2022年02月15日
アンリ・コーヴァン(清水 健/訳)
『マクシミリアン・エレールの冒険』論創社
1845年1月。
マクシミリアン・エレールは、かつては弁護士だった。今では、世間から隠遁して暮らしている。
まだ30歳そこそこの若さだが、人間は〈無駄〉であると考えていた。マクシミリアンは、夢に殺された夢想家であり、過剰な思索によって消耗した死にゆく思索家でもあった。
引き籠もっているマクシミリアンの目の周りには黒い隈ができ、唇には血の気がなく、白髪まじり。長身の身体は骸骨のように痩せ、手足は小刻みに震えており、まるで老人のよう。心配した友人は医師に往診を頼んだ。
医師の診察を受けているとき、警察がやってくる。マクシミリアンはアパートの七階に住んでいるが、つい最近まで隣室に住んでいた男に殺人の嫌疑がかけられているという。
マクシミリアンと医師は、容疑者の荷物の捜査に立ち会う。警察の言う、盗まれたという大金は見つからない。マクシミリアンの記憶では、容疑者の挙動に不審なところはなにもなかった。
殺されたのは、ブレア=ルノワール。巨万の財を築いて数年前に金融界から引退した、著名な元銀行家だ。昨日の朝方、ベッドで亡くなっているのを発見された。
書類が荒らされ、大金も消え、テーブルに残されていたグラスからは、砒素の痕跡が見つかっている。
ルノワールは、兄のブレア=ケルガンと仲違いしていた。そのため、遺産は甥のカスティーユのものになると考えられていた。そのためには遺書が欠かせない。
ところが、あるはずの遺書がみつからなかった。カスティーユは困惑するが、どうすることもできない。
殺人の嫌疑をかけられたのは、使用人のジャン=ルイ・ゲランだった。犯行があった日の前日に、薬局で砒素を購入している。
ところが、検死解剖をした医学博士は、被害者の体内から砒素の痕跡を見つけられなかった。鑑定のやり直しが決まるが、検死をした医学博士は納得がいかない。しかも、司法警察が声をかけたのが、ウィクソン博士だったからなおさらだ。
ウィクソン博士は英国人の医師だが、策謀家で、疑似科学を広めたこともある曰く付きの人物。そのウィクソン博士が、再鑑定で砒素を見つける。
一連の出来事を知ったマクシミリアンは、興味を抱き、変装してブレア=ケルガンの使用人となるが……。
フランス古典ミステリ。
コナン・ドイルの《シャーロック・ホームズ》の原型ではないか、と言われているそうです。確かに、そんな感じ。
語り手は、医師である「私」。友人に頼まれて、病にやられているマクシミリアンの診察をし、共感を抱きます。
最初に検死をした医学博士は恩師に当たり、再鑑定に立ち会えない恩師に代わり屋敷に赴きます。その際、マクシミリアンも同行します。
謎となるとウキウキしだすマクシミリアンには既視感ありあり。ウィクソン博士は、さながらモリアーティ教授ですね。どことなく似ているのが、読んでいておもしろいです。
いかんせん1871年の作品なので、こなれていない印象。都合良く真相が明らかになるなど、どうしたって物足りなさは否めません。
ちなみに、史上初の推理小説といわれている「モルグ街の殺人」は1841年。そちらにも《シャーロック・ホームズ》の原型となった探偵が登場します。
2022年02月21日
アンドレアス・エシュバッハ(山崎恒裕/訳)
『パーフェクトコピー』ポプラ社
ヴォルフガング・ヴェーデベルクは、ギムナジウムに通う15歳。
幼いころからチェロを習ってきた。才能を高く評価され、発表会で好評を得たこともある。
本人以上に、父のリヒャルトが熱心だった。ところが父は、ヴォルフガングを個人レッスンに通わせるだけ。音楽学校はおろか、オーケストラへの参加も認めてくれない。
ヴォルフガングは自分の才能は本物なのか、疑問を抱いていた。そんなとき、ヒロユキ・マツモトの演奏を耳にして衝撃を受ける。
天才チェリストとして名前を知られているヒロユキは17歳。父は、将来ヴォルフガングはヒロユキのようになるのだと断言する。
ヴォルフガングはヒロユキの音に、ただひたすら圧倒されていた。これまでは鍛錬こそが奇蹟を起こすと信じていた。投げ出したりしなければ、目標から近づいてくる。
しかし、自分にはヒロユキみたいな才能はない。ヒロユキみたいには弾けない。練習で埋まるような差ではなかった。
ヴォルフガングに迷いが生じはじめる。そもそも、それほどチェロが好きではない。自分は音楽そのものではなく、社会での成功を求めているにすぎないのではないか。
父に想いをぶつけると、一蹴されてしまう。
父は、才能というものは遺伝子に刻まれているという。ヴォルフガングは世界的なチェリストになるだけの遺伝子をちゃんと備えている、と。
父のリヒャルトは、ガン治療を専門とするクリニックの院長。遺伝子分析を仕事していたこともある。そして、医者の家に生まれたために音楽の道へ進むことを断念した過去があった。
そのころ世間では、クローン人間の話題でもちきりだった
2週間前にキューバ人医師が、16年前にクローン人間を造っていたと発表した。
当時、ドイツ人の科学者が深くかかわっていたらしい。それ以来マスコミはクローン人間一色。ギムナジウムでも同じだった。誰もがクローン人間について論じてばかりいる。
悩めるヴォルフガングはそれどころじゃない。ところが新聞の一面で、ヴォルフガングがクローン人間ではないかと報道されてしまう。
ヴォルフガングには信じられなかった。なにしろ、父の子供時代の写真と自分とは似ていない。
遺伝子検査の結果、ふたりはクローンではないと結論づけられるが……。
児童書。クローンSF。
ギムナジウムの先生たちが、世間の話題にいっちょかみしたくて、いろいろ工夫を凝らすのがおもしろい。英語の授業で、ヘミングウェイの『老人と海』(キューバ滞在中に執筆/キューバ人が出てくる)をとりあげたり、歴史では、ニュース番組で映っていた17〜18世紀のハバナの建造物をネタにして講釈したり。
ヴォルフガングはチェロで悩んでますが、女の子のことも気になって仕方ないお年頃。
となりのクラスのスヴェーニャ・マイトラントと仲良くなります。そのきっかけが、財団法人ドイツ数学基金が主催している数学コンテストへの参加。音楽的思考と数学的思考にはきわめて似通ったものがあるそうで、数学教師から誘われます。
というわけで、クローンと音楽、数学、恋愛と、いろいろ盛りだくさん。とはいえ児童書ですから、そこは加味して読まないとならないかな、と思いました。
少々もの足りない……。
2022年02月23日
ヴァーナー・ヴィンジ(若島 正/訳)
『マイクロチップの魔術師』新潮文庫
魔法使いにとって自分の〈真の名前〉は、命にかかわる最大の悩みの種だった。ひとたび知られてしまえば、服従させられてしまう。
魔術師として成功している〈スリッパリー氏〉は〈魔窟〉の大物。現実世界ではロジャー・ポラックといった。ポラックの職業は小説家。その線から、〈大敵〉に正体を知られてしまう。
連邦政府にとって、ポラックのような魔術師たちはシステムを悪用する破壊分子。排除の対称だ。ポラックは当局から、取引きを持ちかけられる。
データ空間を魔法の世界で表現することは、ごく自然な流れだった。データ構造やプログラムやファイルやデータ通信規約が、〈別世界〉では、化物や転生や呪文や城になる。高解像度の脳波計を入力/出力装置として使用することで、その世界にいるかのようにふるまえる。
このところ〈別世界〉では、〈郵便屋〉と呼ばれる男が問題になっていた。〈郵便屋〉は、リアルタイムで通信したりしない。そのためポラックは、〈郵便屋〉を単純な端末しか持たない田舎者だと思っていた。ところが最近〈郵便屋〉は、とてつもない離れわざをやってのけた。
ポラックのような魔術師は、個人的に儲けるとか、自分の才能を見せびらかすことしか興味がない。悪名を広めようなどとは思わない。せいぜい福祉や税金をごまかすくらいだ。
一方〈郵便屋〉は、イデオロギーで行動しているらしい。破壊活動だけではあきたらず、征服をたくらんでいるようだ。〈郵便屋〉はきわめて巧妙に、当局のコンピュータを乗っ取っていた。
ポラックが持ちかけられた取引きは、〈魔窟〉での内部調査だった。とにかく〈郵便屋〉の正体が謎だったのだ。
ポラックとしては、できることなら逃げてしまいたい。しかし〈真の名前〉を知られている以上、どうしようもなかった。
当局は警戒した。スリッパリー氏の正体が分かり、〈魔窟〉の誰かにこの事件を内部調査してほしいと取引を申し出る。〈スリッパリー氏〉となったポラックは、〈魔窟〉の〈赤毛の魔女〉エリスリナに協力を求める。
エリスリナによると〈郵便屋〉は、ヴェネズエラの革命で支配者となった男と繋がりがあるらしい。弱い者から取りこんで〈真の名前〉を探り、破壊してしまうのだという。その正体は、異星からの侵略者だというが……。
ネットワークSF。
コンピュータ世界を魔法世界に置き換えて表現したもの。メタヴァースのはしりとして読みました。
いかんせん黎明期のコンピュータなので、まぁ、いろいろ古いんですが、古いなりに魔法世界としっくりきて、興味深いです。
2022年02月24日
リディア・ミレット(川野太郎/訳)
『子供たちの聖書』みすず書房
その大きな家は19世紀の泥棒男爵が建てたもので、避暑のための宮殿のような別荘だった。森のなかにツリーハウスが、湖にはボートが用意されている。
親たちは飲んでばかりいる。
かれらは大学で親しかったけれど、これまでに集まったことはない。職業は大学教授だったり、婦人科医だったり、映画監督だったり、建築家だったりと、ばらばら。そんな親たちが子供たちをつれて、このシーズンを、むかつくほど長い同窓会にあてた。
親たちには、個室の寝室と、それぞれに備え付けのバスルームがある。その一方、子供たちには屋根裏部屋ひとつ。12人の少年少女たちは反発していた。
子供たちは、スマホを、タブレットを、すべての画面と外部へのデジタルな通路を没収されていた。暇つぶしに、血縁を隠して遊んだ。誰が親か当てる〈親ゲーム〉をしたのだ。
子供たちにとっては、自分の親が誰か知られてしまうのは恥ずかしいことだ。その繋がりは自分たちを貶める。品位を傷つけてしまう。親たちのほぼ完全な無関心があったからこそできるゲームだった。
このとき誰もが、世界の終わりに直面していた。
慣れ親しんだ世界は終わろうとしている。科学者はいま終わりつつあると言い、哲学者はもうずっと前から終わりはじめていたと言った。歴史学者は、以前にも暗い時代はあったと言った。政治家はなにもかもよくなると言い張った。
子供たちが生まれる前には、世界が終わることは決まっていた。ほとんどの親たちは、なにもしなかった。
屋敷に連れられてきた子供たちは、浜へキャンプに向かう。親の目を逃れて遊ぶが、4日目になって屋敷に呼び戻されてしまう。
悪天候が迫っていた。すでに親たちはパニックになっている。嵐のカテゴリーは4。風速は70メートル。
屋敷が嵐に直撃されたのは、真夜中だった。
一本の枝が屋根を引き裂き、屋根裏部屋は水浸し。ボートもさらわれてしまう。ボートを取りにいった子供たちは、小柄な男を助けた。
男は農場の管理人だという。もはや屋敷は危険だ。幸い、農場のオーナーと連絡が取れ、避難所として使う許可が得られた。
ところが親たちは、屋敷にいると言う。破損したところを修理しないと賃貸借契約違反になると。だから、いますぐ離れることはできない。
子供たちは親たちから離れて、農場に避難するが……。
終末もの。
語り手は、子供たちのひとりであるイヴ。イヴの一人称で物語は展開していきます。
イヴには弟のジャックがいます。ジャックは、教会の屋根についたプラスマークがなにを意味しているのかも知らない子供。そんなまっさらな状態で子供向け聖書を読み、神と自分をとりまく環境を解読していきます。
嵐が〈ノアの箱船〉を彷彿とされるように、いろんな新旧約聖書のエピソードが盛りこまれてます。順番通りではなく、内容も微妙に変えてあります。
そのため知らなくても問題ないですが、知っていると、より考えながら読めると思います。
かなり恐ろしい出来事も起こります。それだけは注意。
2022年02月26日
フランシス・ハーディング(児玉敦子/訳)
『影を呑んだ少女』東京創元社
ポプラはとても小さな町だった。
この町にきたとき母は、娘の名前を和平(メイクピース)と変えた。だれもが信心深い町ゆえ、少しでも馴染むようにと配慮したのだろう。
母娘は、おじとおばの家に居候していた。いつなんどき失われるかわからない不安定な立場だった。
メイクピースは悪夢をよく見た。月明かりと、ささやきと、できそこないのものとで満ち満ちた夢。毎晩悲鳴をあげて目覚める。居候にとって、悲鳴は許されないことだ。
10歳のメイクピースは、墓地の一角にある礼拝堂で訓練をさせられるようになった。
死んだ人は溺れているようなもの。暗闇のなかで腕を振りまわして、なんでもいいからつかもうとする。油断していたら、傷つけられてしまう。
メイクピースには、死者の霊をとりこむ能力があった。霊たちは、メイクピースの頭に入りこもうとする。なにがあっても入れてはならない。
メイクピースは負けなかった。少なくとも生き延びた。そして、自分を置き去りにした母を、許すことができなくなった。
それから2年。
母娘がけんかをしたとき、ふたりはロンドンにいた。
王と議会は対立している。王を責めることのできない民衆の怒りは、代わりに、王の顧問に向いていた。ふたりは暴動に巻きこまれ、母が命を落とした。
非嫡出子を産んだ女が埋められるのは、聖別されていない土地だ。母は、湿地のへりに埋葬された。
それからまもなく、メイクピースは父の一族に引き取られることになった。すでに他界しているが、メイクピースの父は、グライズヘイズのサー・ピーター・フェルモットだという。家長のフェルモット卿は、祖父に当たる。
フェルモット家は名門だが、だれもが恐れる一族だ。
メイクピースはフェルモット卿から問われるがままに、頭に入ろうとする霊のはなしをする。フェルモット卿は、霊を害虫と呼んだ。ひとつでも脳内に巣をつくったら、危険にさらされる。幽霊は退治しなければならない。
メイクピースはフェルモット卿に脅えるが、自分に家が必要なこともわかっていた。厨房で働きはじめ、自分の居場所を作っていく。
メイクピースには異母兄がいた。同じようにサー・ピーターの婚外子である、ジェイムズ・ウィナーシュだ。14歳のジェイムズは、これまでに何度も逃げ出しては、連れ戻されていた。
メイクピースはジェイムズから、一緒に逃げようと持ちかけられるが……。
ダークな歴史ファンタジー。
児童書。
背景に、ピューリタン革命があります。
メイクピースは母亡きあと、湿地でクマの霊と出会い、取りこんでしまいます。それに気がついたのは、グライズヘイズに到着してから。本能のままに行動しようとするクマをなだめながら、メイクピースは生きていくことになってしまいます。
フェルモット一族の特殊能力と、激動の時代ゆえのダイナミックさが合わさって物語は展開していきます。読み応え抜群。
メイクピースが若いので児童書分類されてますけれど、実際は児童書なんてもんじゃないです。