2022年08月21日
デイヴィッド・マークソン(木原善彦/訳)
『ウィトゲンシュタインの愛人』図書刊行会
最初の頃、私は時々、道に伝言を残した。白いペンキで、行き来する人が見られるよう交差点に、大きな活字体で。
ルーブルに誰かが住んでいる。
もちろん誰も来なかった。
アラスカを車で横断し、ベーリング海峡をボートで渡ったときの私は、間違いなくおかしくなっていた。狂気についてはほとんど疑う余地はない。
メキシコに行ったときは必ずしも頭がおかしかったわけではない。亡くなった子供の墓を訪れるのに、必ずしも狂っている必要がないのは当たり前のことだ。
サイモンは7歳だった。
生きていれば今頃は30歳になるはず。あるいは27か。私には心から離れた時間(アウト・オブ・マインド)がある。もはや正確な日付は分からない。
猫を見かけたと思ったのは、ローマにいたときだ。間違いなく頭がどうかしていた。だから猫を見たと思った。
あのころはまだ探索をしていた。
最初の春暖の兆しとともに、中央ロシアを逆戻りし、再び故郷に帰った。ガソリンを使い切っては車を乗り換えというのを繰り返しながら。
この海岸へ来たのはカモメがきっかけだ。
ここでカモメを見たと思ったとき、私の頭はおかしくなかった。だからカモメを見たのではないことが分かった。
今日は火曜日だと思う。そんな気がする。外はまだ、気まぐれな風が吹いている。ひょっとすると八月初旬なのかもしれない。
改めて考えると、この家は割と住み心地がいい。次の雪がたぶん、ここでの三度目になる。
ひょっとすると……
断片を積み上げる、実験系の小説。
なんでも〈アメリカ実験小説の最高到達点〉だそうで。
主人公の女性が、タイプライターで思いつくままに文章を綴っているという設定。どうやら、世界でただひとりの生存者のようです。原因究明はありません。
自分の書いたものを読み返して直したりはしないので、重複した言葉が頻発します。
「もちろん」「とはいえ」「ひょっとすると」「実を言うと」「それはともかく」「だけれども」などなどなど。
さらに、内容があちこちに飛びます。過去の出来事を思いだし、海岸で用を足したことを報告し、ペネロピについて意見を述べ、レンブランドを語り、生理のことを書き、ブラームスの伝記について考える。
やさしい言葉で書かれているので誰でも読めるけれど、誰もが理解できるわけではない、といったたぐい。
これを読むには、ある程度の教養がいると思います。
思いつくままに綴っているようでいて、相当計算されてます。なので、知識が多少あやふやでも受けとることは可能です。そこからさらに発展させていくとなると、荷が重かったです……。
なお、タイトルの意味は、訳者によると、ウィトゲンシュタイン哲学のパロディーになっているからではないか、と。哲学のパロディーになっていることも気がつきませんでした。教養、必要ですね。
2022年08月26日
チャールズ・ディケンズ(加賀山卓朗/訳)
『大いなる遺産』上下巻/新潮文庫
フィリップの父の姓はピリップだった。幼いころ、フィリップはどちらもピップとしか発音できず、そのうち、まわりからもピップと呼ばれるようになった。
ピップは、20以上も年のはなれた姉に育てられている。姉が鍛冶屋のジョゼフ(ジョー)・ガージェリーと結婚したときには、ピップも迎え入れられた。
ジョーは温厚で善良。ピップはジョーのことが大好き。ふたりは親友で、いささか暴力的な姉に対して戦友でもある。ピップは、ジョーの従弟になる日を待ちわびていた。
クリスマスの前日、両親が眠る墓地にひとりで行ったピップは、怖ろしい男に遭遇してしまう。
粗い灰色の服に身を包んだ男は、片方の足に大きな鉄の鎖をつけていた。水にびっしょり濡れて泥にまみれ、頭にはぼろ布を巻いている。監獄船から脱走した囚人だった。
脅されたピップは、誰にも口外しないこと、翌朝にヤスリと食べ物をもってくることを約束する。ピップは約束を果たすが、男は逃げおおせなかった。その日のうちに捕らえられたのだ。
それから間もなく。ピップは大富豪のミス・ハヴィシャムに呼びだされる。ミス・ハヴィシャムと対面したピップは、異様な姿に面食らってしまう。
ミス・ハヴィシャムは花嫁姿だった。高価な素材の服も、白髪を覆う長いベールも、靴も白い。それらは、骨と皮にまでしおれた体から垂れ下がり、ことごとく光沢を失い、色褪せて黄ばんでいた。
ミス・ハヴィシャムは、退屈で、気晴らしが欲しいのだという。男の子が遊んでいるところを見たがった。養女のエステラが呼ばれ、ピップはエステラを相手にカード遊びをする。
ピップには、エステラのあまりに激しい軽蔑が辛く、恥ずかしさでいたたまれない。エステラに見下される要因を、ジョーが下等で情けない暮らしをしているせいだと思いこんでしまう。
ミス・ハヴィシャムのお屋敷通いは、ピップが正式にジョーの従弟となるまで続いた。そのときには、ピップの心は鍛冶屋から離れてしまっていた。それでも、それなりの熱心さで働いたのは、ジョーが誠実だったからにすぎない。
ピップが従弟になって4年。
ロンドンの弁護士が尋ねてくる。ピップに、匿名の後援者がいるというのだ。ただし、大いなる遺産を受けとるには条件がある。ただちにいまの生活をやめ、紳士として育てられなければならない。
ピップは迷わなかった。喜々として故郷を捨てた。弁護士の紹介で、ミス・ハヴィシャムの親戚であるミスター・マシュー・ポケットのもとで学ぶ道を選ぶが……。
イギリスの文豪ディケンズの代表作のひとつ。
ピップの回想録として書かれてます。
ピップの心に暗い影を落としている囚人をめぐるエピソード、ジョーの性根のよさの源泉、ミス・ハヴィシャムの異様な姿、匿名の後援者は誰なのか、いろいろなことを考えさせられました。
若さ故の間違った言動も、批判的に振り返っているため落ち着いて読めます。訳者の力もあるかと思いますが、文章がしゃれてて気持ちいいです。
有名作品だけに、読む前からいろいろ知っていたのが残念でした。なにも知らない状態で読みたかったな、というのが正直なところです。その点では早い時期に読むべきでしょうが、今だからこそ、の読み方もできるかと思います。
2022年09月01日
V・E・シュワブ(高里ひろ/訳)
『アディ・ラルーの誰も知らない人生』上下巻
早川書房
2014年。
アディは、ニューヨークの古書店に入る。そこでヘンリー・ストラウスと出会った。
そのときアディは、店番をしているヘンリーの目を盗んで、本を持ち帰ろうとしていた。いつもしていることだ。
なぜなら、アディのことは誰も覚えていられないから。ドアを閉めたら、もう知らない人になる。アディは、そこにいたという事実を残すことができない。
ところが、いつもと違うことが起こった。ヘンリーが店のそとまで追いかけてきたのだ。アディは驚き、ヘンリーに興味を抱くが……。
1714年。
ヴィヨンのアドリーヌ・ラルーは、知らない相手と結婚させられようとしていた。
すでにアドリーヌは23歳。ずっと、色目を使う男たちを退けつづけてきた。これまでは、古い神々に贈りものをささげ、祈ることで自由でいられた。
古い神々のことを教えてくれたのは、村の老婆エステルだ。
エステルはアドリーヌのことをアディと呼び、希望の燃えさしに息を吹きかけて人生は自分のものになると信じさせた。アディの頭は自由な考えでいっぱいになり、理想の男性を夢に見るようになっていた。
エステルによると、教会の神は新しい神なのだという。都市と国王のもので、森や石や川の水のあいだには居場所をもっていない。
そこには、古い神々がいる。古い神々は、へりくだって贈りものと称賛を投げかければ、願いをかなえてくれることもある。だが、けっして日が暮れてから現われる神に祈ってはいけない。
アディは、教会に行く直前になって逃げだすと、森にかけこみ必死に祈った。無我夢中で、背後で太陽が村の裏に隠れ、黄昏が夜になったのに気づかなかった。闇の存在が現わるまでは。
この神が取引するのはただひとつ。魂だけ。それでもアディは、自由でいられることを望んだ。
そのときからアディは、誰も知らない人間となった。見えなくなった瞬間に、忘れられてしまう。自分の名前を言うこともできない。文字を書き残すことも許されない。
アディは人知れず不老不死となり、世界を彷徨うようになるが……。
ロマンティック・ファンタジイ。
300年ぶりに、自分のことを覚えていてくれる人と出会ったアディと、これまたわけありのヘンリーの物語。アディの人生のダイジェストも語られます。
基本的にアディの心情に寄り添って書かれているので、アディに共感できないと読むのが厳しいかもしれません。とにかくモヤモヤします。
魂を差し出してまで結婚しない〈自由〉を求めたのに、結局は男か、と。そもそも、なんのために結婚しない〈自由〉が必要なのか分かりにくいのです。本人も分かってなかったら呪われてしまった、とも言えますが。
忘れられてしまうという特性はおもしろいんですけどね。時代考証の甘さもあり、些細なことが気になって仕方ありませんでした。
アディに共感できれば、読むのが楽しい大好きな物語になると思います。
2022年09月07日
ウィルキー・コリンズ(中村能三/訳)
『月長石』創元推理文庫
ガブリエル・ベタレッジがハーンカスル家の三姉妹のお付きとしてご奉公にあがったのは、15歳のときだった。ハーンカスル家にはほかに、アーサーとジョンという兄弟もいる。ベタレッジは、末娘がヴェリンダー卿に輿入れをするときお供をして、ヴェリンダー家に移った。
ベタレッジは土地差配人として働き、結婚し、娘が生まれ、妻が亡くなり、ヴェリンダー卿も亡くなった。安楽な余生を送るようにと邸内の執事となったのは1847年のこと。以来、ヨークシャーの邸宅で暮らし、ヴェリンダー夫人を助けている。
ある日ベタレッジは、フランクリン・ブレークから手記を頼まれた。
2年前、ダイヤモンドの紛失事件があった。そのダイヤモンドは〈月長石〉と呼ばれ、2万ポンドはくだらないという。ヴェリンダー夫人のひとり娘レイチェルの誕生日のお祝いとして、退役陸軍大佐のジョン・ハーンカスルから遺贈されたものだった。
レイチェルは年頃の娘らしく〈月長石〉に大喜び。ところが、翌朝には〈月長石〉は消えてなくなっていた。
フランクリンは、ヴェリンダー夫人の姉の息子。大佐の遺言執行人である父に代わって〈月長石〉を持参し、誕生日パーティにも出席していた。フランクリンが率先して警察の捜査に協力する一方、レイチェルは部屋に閉じこもってなにも語ろうとしない。
あれから2年。フランクリンは事件の記録を残しておこうと考えた。最初の書き手はベタレッジだ。この家でおこった顛末を、いちばんよく知っているのはベタレッジなのだから。
そもそも〈月長石〉は、インドの聖都にあり、月の象徴たる〈四本の手の神〉の額に象嵌されていたという。あるとき神像を守る3人のバラモン教徒が、神の言葉を夢まくらで耳にした。この聖なる石に手を触れる者は、その者はもとより、その宝石を受けつぐ一族たちことごとくの上に、必ずや災がくだるであろう、と。
侵略者によって神像がうち砕かれると、〈月長石〉は無法な回教徒の手から手へと渡っていく。ベアード将軍によるセリンガパタム襲撃のとき、宝物庫に〈月長石〉があったという。従軍していた大佐は、略奪を認めようとはしなかったが。
退役して帰国した大佐は、一族のものたちが交際したがらないような人間になっていた。なかでもヴェリンダー夫人は一族の先頭に立って拒絶し、会おうともしない。晩年の大佐は、孤独で、放埒な日陰者の生活を送っていたそうだ。
亡くなるとき大佐は、ヴェリンダー夫人を許し、その証としてレイチェルに〈月長石〉を贈ると言い残した。あるいは、やっかいで危険な遺贈をわざとしたのかもしれない。
ベタレッジは、捜査の行方を見守るが……。
ミステリ。
1868年発表。〈探偵小説史上不朽の名作〉ということで読みましたが、その評価も納得。
元は上下巻で、上巻部分の大半をベタレッジの手記が占めてます。そこで登場人物が紹介され、紛失事件が起こり、カッフ部長刑事の捜査にベタレッジがやきもきします。
時代故の男尊女卑はありますが、物語そのものは古さを感じさせないです。ベタレッジは、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』を聖書のように読みこんでいて、啓示を受けたりしてます。なお、『ロビンソン・クルーソー』は読んでなくても大丈夫です。
ベタレッジの手記の次は、故ヴェリンダー卿の姪クラック嬢。父が破産したために貧乏で、誕生日パーティには出席していませんが親戚づきあいはしてます。慈善活動に熱心で、キリスト教徒というより狂信者の域に達してます。
順々に披露されるいろんな人の手記から、徐々に事件の全容が見えてきます。視点の違いからくるズレによって、見えていなかったものが見えてきたり、違った見方をするようになったり。
名作たる所以ですね。
おおとりは、目次を見れば分かりますが、〈月長石〉の発見です。誰がどこで発見したのか。大円団でした。
連作SF中編集。
モア・ブルーは、デネブ大学大図書館の主任司書。新しい利用者である若いコメノのふたりを腹立たしく思っている。
ふたりは、連邦草創期の人間(ヒューマン)のファクト/フィクションを選択してもらえないか、と言う。モアの学生時代には、選択は自分でするものだった。他人の脳をあてにするとは!
しかし昨今は、数字だらけのテープをせっせと走査する技術系の学生が多い。古文書の手ざわりを好む学生は貴重だ。わるい気はしない。
モアは、巨大な〈リフト〉近辺を舞台にした3つの物語を選んでやった。〈リフト〉は、連邦とコメノの星域を隔てている。
「たったひとつの冴えたやりかた」
コーティリア(コーティー)・カナダ・キャスは、金持ちのはねっかえり娘。幼いころからずっと、遠い星々の探検家たちに憧れてきた。自分もそうなりたいと願い、そのための準備も怠りない。
そんなコーティーが、16歳の誕生プレゼントとして両親からもらったのは、小型スペース・クーペだった。コーティーの両親は予想していなかっただろう。コーティーが未開の宇宙をめざすなどとは。
まずコーティーが訪れたのは、連邦の辺境にある連邦基地900。基地で準備を進めていたコーティの耳に、巡回補給船914B-Kが連絡途絶しているニュースが入ってくる。まだはっきりした目的地を決めていなかったコーティーは興味をそそられ、関連する座標を書きとめた。
ひとまずビーコン・ルート沿いに出発したコーティーは、連邦基地900宛てのメッセージ・パイプを拾う。
メッセージ・パイプは、914B-Kからのものだった。音声メッセージが、未知のエイリアンとのファースト・コンタクトを報告している。だが、様子がおかしい。コーティーは基地に一報を入れてパイプを送りだすと、自分が914B-Kを見つけようと考えた。
実はメッセージ・パイプには、914B-Kが接触した極少の異星生命体〈イーア〉もついてきていた。彼らは、他の生物の内部に入りこみ、共存しながら生きている。
コーティーは、自分の声を通じて接触しようとする〈イーア〉に面食らうが……。
「グッドナイト、スイートハーツ」
レイブンには、長い空白の歳月がある。
最終戦争を経験して、特別慰労リハビリテーションを受けた。そのときに負担になる記憶は封印された。さらに、宇宙を航行中のカプセルの中で、70年近くを過ごしてもいる。目覚めていたのは30年程しかない。
現在レイブンは星ぼしの谷間で、割りのいいサルベージと救難の商売をしている。稼いだクレジットの大半は、サルベージ船ブラックバード号につぎこんだ。特性の警報システムは、この扇区でも活動している〈暗黒界〉のならず者対策に役立ってくれている。
〈リフト〉の縁にむかう長い旅についていたレイヴンは、冷凍睡眠から起こされた。パヴェル・パラディン男爵の豪華な自家用ヨットが燃料切れを起こたという。
かけつけたレイヴンは、グリッド・ショーで活躍しているイリエラと出会う。イリエラに話しかけられたレイヴンは、封印した記憶を思いだしてしまうが……。
「衝突」
連邦基地900にメッセージ・パイプが届いた。送りだされたのは、20年以上もむかし。〈リフト〉の向こう側に旅立ったリフト横断探測船〈リフト・ランナー〉からの第一信だった。
〈リフト〉は特有の濃度勾配があり、どんな電磁波通信も聞きとれないほど歪めてしまう。〈リフト〉の対岸で分かっているのは、渦状腕の正常な星野がはじまっていること。人為的な通信があること。
センサーでは、その付近の恒星のどれにも惑星がないことしか分からない。人間が横断する必要があった。
〈リフト・ランナー〉の報告者はどこか不安そうだ。5名の乗員全員が冷凍睡眠から目覚めており、なにか奇怪なことが起こっている感覚が拭えないという。だが、原因は分からない。
連邦基地900は報告を待つことしかできない。
一方〈リフト〉の対岸では、コメノたちが未知のエイリアンに襲われていた。コメノは〈調和圏ハーモニー〉の本拠、惑星ジールタンに助けを求める。襲撃者どもは、ジューマン、またはジューマノールと称しているらしい。
ただちに 艦隊が派遣された。
外務局のジラノイは、ジューマン語の勉強をしようと思いつく。やつらはまもなく絶滅する。そんな言語を学ぼうとする者はいない。しかし、宇宙のどこかには、もっとおおぜいのジューマノールがいるはずだ。
ジラノイは補給艦隊に同乗するが……。
18年ぶりの再読。
大図書館でコメノのカップルが本を借りるエピソードを軸に、3つの物語が展開します。表題作ばかりが有名になっているのですが、冴えたやりかたを選択したのはコーティーだけではありません。
ちょっとした偶然や、個人の、ひとつひとつの選択が歴史を作っていき、その延長線上に大図書館とコメノのカップルがいるのだと思うと感慨深いです。
モアはこの3作について、『輝くもの天より墜ち』と時代がほぼ似かよっている、という説明をします。そちらの物語の発端は、最終戦争直後に、惑星を太陽もろとも破壊してしまった事件。ノヴァ前線が惑星ダミエムを通過したときの物語です。
2022年09月18日
スザンナ・クラーク(原島文世/訳)
『ピラネージ』東京創元社
館の美しさは計り知れず、そのやさしさはかぎりない。
世界とは館のことであり、館は完全で無欠だ。
広間と通路は、はるか遠くへ整然と続いていく。どの広間にも玄関にも階段にも、必ず像が存在する。なにもない台座や後陣、隙間が空いているところもある。
館は三層からなる。雲の領域である上層広間群、潮の領域である水没広間群、その間で鳥と人の領域である中間広間群。館の外には天体しかない。太陽、月、そして星。
世界が始まって以来、どうやら15名の人々が存在したらしい。
ひとりは、僕。30〜35歳のあいだ。細身で長身。
もうひとりは、50〜60歳。やはり細身で長身。もうひとりは、大いなる秘密の知識が世界のどこかに隠れており、発見すればきわめて大きな力が得られると信じている。
あとの人々は骸骨になっている。
おそらく、世界には16人目がいるはずだ。まだ見たことはないが。
僕ともうひとりは、週に二回、火曜と金曜に会う。もうひとりは僕のことをピラネージと呼ぶ。記憶にあるかぎり、それは僕の名ではない。
僕は、科学者であり探検家である。西は第960広場まで、北は第890広間まで、南は第768広間まで旅をした。東の広間群は荒廃しており、天井も床も、ときには壁さえも崩れている。
あるとき、もうひとりが、ほかの誰かの話をした。もうひとりは、ほかの誰かとかかわりを持ってはいけないという。姿を見られてもだめ。話しかけず、身を隠さなければならない。
僕が16番目のことかと聞くと、そうだという。
16は、話しかけるだけで思考をばらばらにしてしまえる。理性を破壊したがっており、おそるべき影響を及ぼす。目にするものすべてを疑うように仕向けることができる。
僕はもうひとりを信頼している。だから同意する。ところが、まったくの不意打ちで、第一北東広間で男と遭遇してしまった。あまりに突然で、隠れる間もなかった。
幸い、男は16ではなかった。おそらく予言者だろう。
予言者は、この世界の秘密を語る。
ここは分流世界。別の世界から流れ出す考えによって創造される。予言者が、この館を存在するという理論を立てたのだという。ここに至る道があるという理論を立てたのは自分だ、と。
予言者によると、僕を捜している人がいるらしい。おそらく、もうひとりから警告されている16のことだ。
僕は扉の脇の敷石に、16の書いたものを見つけるが……。
幻想的な巨大な館を舞台にした物語。
僕と自称する男の独白で展開していきます。
自分の年齢もはっきり言えないにもかかわらず、すべてのことを覚えていると確信している僕。現実世界のことはきれいに忘れてます。館に車はないけれどガソリンの匂いについて語ったり、いろんなところで矛盾を抱えてます。
予言者が現われるあたりから、徐々に真相が明かされていきます。物語が展開するということは、当初の幻想的な雰囲気が失われていくということ。まだまだ浸りかった……と思ってしまって複雑な心境。
いろいろなことが判明してく過程がおもしろいこともあるのに、不思議です。
《しゃばけ》シリーズ第18巻
一太郎は、廻船問屋兼薬種問屋、長崎屋の若だんな。齡三千年の大妖を祖母にもつ。
一太郎の世話をあれこれと焼くのは、手代の佐助と仁吉。ふたりの正体は、犬神と白沢。祖母によって送り込まれてきた。というのも一太郎が、商売よりも病に経験豊富であるほど病弱であったから。
両親も手代たちも、遠方まで噂になるほどの過保護ぶり。一太郎は、甘やかされすぎることに憤るものの、それで性根が曲がることもなく、妖(あやかし)たちに囲まれた日々を送っている。
「いちねんかん」
一太郎の両親が突然、九州の別府まで湯治に行きたいと言い出した。遠縁のおきのさんに誘われたのだという。おきのさんとは、祖母おぎんのことだろう。
一太郎は、長崎屋の主として店を預かることになった。
両親が旅の支度をするのを見ていた一太郎は、新たな旅用の薬袋を考案する。この商売に、薬種問屋の大番頭・忠七は大乗り気。一太郎の知らないところで商売を広げてしまうが……。
「ほうこうにん」
一太郎は、湯治に旅立った父に代わってしっかり働こうと張り切っている。佐助と仁吉は、そんな一太郎が心配でならない。自分たちが支えていかねばならないが、商いに忙しくなるとどうしても目が離れる時が増える。
そこでふたりは、貧乏神の金次と付喪神の屏風のぞきに目をつけた。人間に化けられるのだから、使用人として働きながら一太郎のそばにいてもらおうと考えたのだ。
そんなおり、京の大店、十ノ川屋の番頭、熊助が文を持ってきた。紅餅を後払いで買いたいという。互いによく知り、信頼しあっている店の間では、良くある取引の仕方だ。ただ熊助の身元が確かめられない。
金次が熊助の正体を見破るが……。
「おにきたる」
長崎屋に、西から怖い流行病が来ると知らせが入った。なんでも、瘴気や鬼毒を持つ疫鬼がうろついていたという。疫病神だったという噂もあった。
仁吉が、流行を早めに止めるため、安値で特別な薬を売ろうと提案した。香蘇散は、古より疫鬼も嫌がった薬だ。陳皮(蜜柑の皮)を使うが、長崎屋には、荼枳尼天の庭で取れた蜜柑の皮が沢山ある。効果抜群のはずだ。
仁吉の狙いは当たるが、長崎屋に、五人の鬼と疫病神がやってきてしまう。しかも、お互いに、江戸に病を流行らしたのは己だと言って譲らない。
一太郎も騒ぎに巻きこまれてしまうが……。
「ともをえる」
一太郎は大坂の椿紀屋から、縁を結びたいという申し出を受けた。
椿紀屋は薬種屋が本家。跡取り息子が先の疫病で亡くなったが、娘は助かった。長崎屋の香蘇散で一命を取り留めたのだ。それで長崎屋に興味を抱いたらしい。
一太郎は、本家の意を受けた江戸椿紀屋の大元締吉右衛門に招かれる。そこで本家の娘婿選びを頼まれてしまった。
候補者は、大坂の両替椿紀屋の次男、達蔵。京にある、紅椿紀屋の次男、次助。京の薬種椿紀屋の四男、幸四郎。全員が江戸椿紀屋に集まっている。
吉右衛門は、一太郎に婿がねを誰にするか選択させることで、一太郎をもはかろうとしているらしい。一太郎は戸惑いながらも、ひとりずつ人となりを見ていくが……。
「帰宅」
通町にある大店の主人たちが呼び集められた。
太物問屋十三屋で、帳場にある店の銭函から小僧が、幾らかくすねて団子を食べた、という。店の主は、叱り、罰を与えて許してやった。それだけなら、呼び集めはしない。
小僧が言うには、近くの湯屋で声をかけられ、盗みのやり方を教わったという。声をかけられたのは、十三屋の小僧だけではない。油屋川上屋も、同じ被害に遭っていた。両家は同じ湯屋だ。
盗みを働いた者たちは、そそのかされただけ。だが、もしかすると、後で脅されるかもしれない。ばらされたくなかったら、店や蔵の鍵を渡せ、賊の引き込みをやれと、脅されるかもしれない。
警戒を強める中、長崎屋に怪しい男が尋ねてくるが……。
若だんなが店を預かっていた1年が語られます。
共通するのは、一太郎が店の主として判断しなければならない、というところ。長崎屋の顔としてがんばろうとする一太郎と、がんばりすぎて倒れるのではないかと心配する周囲と、思いが交錯します。
2022年09月23日
J・グレゴリイ・キイズ(金子 司/訳)
『錬金術師の魔砲』上下巻/ハヤカワ文庫FT
1720年。
フランスのルイ14世は、ペルシャの秘薬を飲んで一命を取り留めて以来、若返った気分になっていた。
その一方で、フランスそのものは弱っている。マールバラとの戦争はうまくいかず、話し合いにも応じてもらえていない。敗北が差し迫っていた。
そんなとき、亡き妻の秘書だったアドリエンヌ・ド・モルネ・ド・モニシュヴルイユが、数学者ファシオを紹介したいという。
ニコラ・ファシオ・ド・デュイリエは、イギリスではアイザック・ニュートン直々の弟子だった。親友でもあったが袂をわかち、フランスにやってきてアカデミー会員になった。今では、復讐をもくろんでいる。
ルイ14世はアドリエンヌに欲望を覚えるが、ファシオの新しい武器にも興味を抱く。ファシオは、ロンドンそのものを破壊できると豪語した。完成すれば、煉瓦ひとつといえども残らず、ロンドンなど存在したこともなかったかのようになる。
ルイ14世は、計画に取りかかる許可を与えた。
ファシオは大喜び。アドリエンヌを助手として雇う。
アドリエンヌは22歳。サン=シール学院で、フランスの女性が受けうるかぎり最高の教育を受けた。ファシオの研究にも興味津々。
だが、数学に興味があるなどと、おおやけにすることはできない。興味の対象は、あくまで音楽や神話だ。それと針仕事も。本心を知られれば、科学アカデミーでの地位を失ってしまう。
英語のできるアドリエンヌは、〈エーテル式文字転送機(エーテルスクライバー)〉で仲間たちとやりとりする仕事を任される。ファシオからは文書の中身を理解する必要はないと言われるが、アドリエンヌはファシオの研究がなんなのか知りたくてたまらない。
そんなアドリエンヌの内心を、外務大臣のトルシ侯爵は見抜いているらしい。宮廷の陰謀について警告を受けるが……。
歴史改変FT。
すべての発端は、1681年。
この世界では、科学と魔術と錬金術が混在してます。すべての物質は〈ダムナタム〉〈ルクス〉〈フレム〉〈ガス〉の4つの要素の組みあわせで成り立っている、と考えられてます。
イギリスでニュートンが錬金術の実験を行ない〈ルクス〉の解放に成功します。その結果、大天使と思われる存在が出てきます。その後、ルイ14世のもとに大天使がやってきて力を貸します。
物語は、アドリエンヌの他、アメリカ・ボストンのベンジャミン(ベン)・フランクリンの視点でも語られます。
ベンも科学に興味を抱いてますが、印刷屋の兄ジェイムズの奉公人に過ぎません。印刷所はベンの提案で〈エーテルスクライバー〉を導入して成功してますが、ライバルが迫ってきてます。ジェイムズが素人考えで改良を命令し、ベンは不可能なのを承知なうえで実験を行ない、成功します。
いろんな人が、自分や組織の思惑で動いていて複雑。しかも、物語は終わってません。ここから始まる、といった雰囲気。
実は、四部作だそうです。翻訳されているのは本書のみ。映像化されて話題にでもならなければ、続きは読めないでしょうねぇ。残念。
2022年09月25日
チャーリー・ジェーン・アンダーズ(市田 泉/訳)
『永遠の真夜中の都市』東京創元社
惑星〈ジャニュアリー〉は、常に太陽に同じ面を向けている。入植した人々は、昼と夜に挟まれた黄昏地帯に、最初の都市〈シオスファント〉を建設した。
シオスファントでは、だれもが時間経過意識(タイムフルネス)について口にする。町じゅうにベルが響き、だれもがあらゆることを、ほかのみんなとまったく同じタイミングでする。シオスファントは、隅々まで統制された都市だった。
ソフィーは、ギムナジウムの学生。ルームメイトのビアンカを敬愛している。ソフィーにとってビアンカは特別な存在だった。
人づきあいが良く快活なビアンカには、輝かしい未来がある。自分にはない。ビアンカは、有力者の子弟向けの養育施設でリーダーとなるための教育を受けている。自分とは違う。ビアンカがギムナジウムに入ったのは、それを期待されていたから。自分は必死になってがんばり、合格した。
ある日、 学生たちの集まりに警官隊がやってきた。急進派の学生のひとりが、ギムナジウムからフード・ドルを盗んだと通報があったという。
ソフィーは、ビアンカがしたことに気がつく。ビアンカは動揺している。見つかったら、彼女の明るい未来はここでおしまいかもしれない。この町のために、たくさんのことができるはずなのに。
ソフィーは、ビアンカのポケットから紙幣を抜き取った。そして、警官に見つかった。
結果は、ソフィーの予想とはまるで違っていた。夕暮れと夜の間のゲートが開かれ、ソフィーはシオスファントから追放されてしまった。ただ叱責を受けるくらいだろうと考えていたのだ。
凍てついた虚無の中、ソフィーはワニと呼んでいる原住生物に助けられる。生き延びたソフィーは、こっそりとシオスファントに戻った。だが、ギムナジウムにも、家族の元に帰ることもできない。
シオスファントでは、よそ者であるたけで違法だ。
ソフィーは、亡き母から安全な場所だと教えられたヘルナンを頼った。ヘルナンはなにも訊かず、招き入れてくれる。以来ソフィーは、ヘルナンの〈イリリアン・パーラー〉で働いている。
ソフィーはときどき、ビアンカの様子を遠目で見た。
ビアンカはまだ急進派と付き合いがある。急進派に〈やり手の運び屋〉マウスが近づき、ビアンカはマウスと取引した。
ソフィーは、ビアンカがだまされていることを知る。警告しようとするが……。
異世界SF。
ローカス賞受賞。
惑星環境が悪化していき、もはや都市と呼べるのは〈シオスファント〉と〈アージェロ〉のみ、という世界。かつては貿易していた両都市は、戦争を経て隔絶してます。
物語は、ソフィーと、マウスの視点からも語られます。
〈やり手の運び屋〉は密輸業者です。マウスは、もとはといえば〈道の民〉でした。〈道の民〉はなにも残さないままに滅んでます。都市には所属せず、世界を渡っていこうとしていた善良な人々でした。
マウスは、〈道の民〉の貴重な〈インベンション〉が、シオスファントの宮殿にあることを知ります。どんなことをしてでも手に入れようと考え、ビアンカをだますに至ります。
なお、ソフィーがビアンカを特別視しているのと同様に、ビアンカもソフィーを絶対視してます。それと〈イリリアン・パーラー〉は非合法ですが、いかがわしい店ではないです。それから、ソフィーとワニとの関わりは続いてます。
圧巻でした。
いろんなことが絡み合ってます。
惑星環境とワニ(ソフィーはゲレトと呼ぶようになります)の生態は独特ですが、それ以外もいろいろあります。
入植した人々が地球から辿ってきた紆余曲折は、子孫たちに影を落としてます。〈シオスファント〉ががっちり統制されているのには経緯があり、〈シオスファント〉と〈アージェロ〉の二大都市の違いも、はっきり示されます。マウスがこだわる〈道の民〉も、思い出話で終わりません。
いろいろありますが全部は書かれていないので、情報過多でいっぱいいっぱいになることもなく消化できました。不足=想像の余地、と好意的に受けとめましたが、きちんと書かれていない、とマイナスに考える人もいるかもしれませんね。
エドワード(ワード)・デアス4世は、8代にわたるネクロマンサーの名家に生まれた。にもかかわらず、できることといったら〈目覚め(ウエイク)〉のような簡単な呪文くらい。
ウエイクは、ベールの向こうに行ってしまった死者を呼び戻す。効果はせいぜい15分。
ネクロマンサーとして認められはした。だが、生命エネルギーの満ち干きを感じ取ることはできない。いままでに自分の力を実感したことがなかった。
そもそもワードが興味をもっているのは、医学だ。
もしかすると、外科医になるべく生まれてきたのかもしれない。いまのところ連邦国家〈ユニオン〉では、外科手術は違法なのだが。おまけに医学校を除籍処分され、医者への道はほぼ閉ざされている。
ワードは勉学のため、秘かに死体を墓地から盗みだしては解剖していた。バンティアンタ、オロシアル、タロレント、ウォルベンでは見つかりそうになった。ワイルデンメア公国では捕まってしまった。
首の後ろに〈女神(ゴッデス)〉の目の焼き印を押されたのはそのときだ。死ななかったのは、ネクロマンサーでもあったからにすぎない。印を隠して暮らしているが、どんどん、住めるところが限られていく。
そして今は、ブラウェナル公国にいる。
ワードはカーライル卿の依頼で、突然の病で亡くなったという娘シーリアを目覚めさせようとしていた。
シーリアは、ワードと同じく20歳くらい。たっぷりした黒髪に縁取られた彫刻のような顔は、この世のものとは思えないほどに美しい。
ウエイクによって目覚めたシーリアは、自分が死んだということを認めようとしない。それはよくあることだ。しかし、窓から出ていくのは高貴な娘のすることではない。
予想外の展開に戸惑い、ワードはあわてて後を追った。死体を盗んだと思われてはかなわない。
必死にシーリアを説得して、死んだことを理解させた。するとシーリアは、思いもよらないことを口にした。自分を殺したのは、父のカーライル卿だというのだ。
ワードは、シーリアに助けを求められてしまう。断りきれず、ふたりで逃亡するが……。
異世界ファンタジー。
ワードと、シーリアの視点からも語られます。
実はシーリアには秘密があって、死神ギルドの殺し屋です。医師の誓いと色仕掛けでワードを手玉に取って、自分がなぜ死ななければならなかったのか突き止めようとします。ワードのことはどんくさい奴だと思ってますが、そういう演技をしている刺客かもしれない、と警戒しています。
読みどころは、ふたりの関係性。序盤のポイントは、ウエイクが15分しか効かない、ということ。もうちょっと上級の呪文に成功して以降は、時間制限はなくなります。
カーライル卿が裏社会のドンだったり、邪悪なインネクロエストリが絡んできたり、ワードが法組織の高官に目を付けられたり、いろいろあります。いろいろある分、さまざまなカタカナ名称が次々と押し寄せてきて……途中で覚えるのを諦めました。
情報がたくさん詰めこまれている一方で、ネクロマンサーがどういう人たちなのか、説明がありません。心構えとかは語られますけど。それについては次作以降、ということなのでしょうね。