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2020年の記録
目録
 
 
 
 
 
 6/現在地
 
 
 
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このページの本たち
量子魔術師』デレク・クンスケン
フェルマーの鸚鵡はしゃべらない』ドゥニ・ゲジ
赤い靴の誘惑』シャンナ・スウェンドソン
七人のイヴ』ニール・スティーヴンスン
ネモの不思議な教科書』ニコル・バシャラン&ドミニク・シモネ
 
オックスフォード連続殺人』ギジェルモ・マルティネス
テメレア戦記 II 翡翠の玉座』ナオミ・ノヴィク
九尾の猫』エラリイ・クイーン
スノウ・クラッシュ』ニール・スティーヴンスン
しゃばけ』畠中 恵

 
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2020年07月11日
デレク・クンスケン(金子 司/訳)
『量子魔術師』ハヤカワ文庫SF2258

 宇宙に進出した人類はワームホール・ネットワーク〈世界軸〉を発見し、広がっていった。〈世界軸〉を支配する強大国家はパトロンとして、クライアントとなった弱小国家を従えている。その立場を入れ替えることは難しい。
 アングロ=スパニッシュ金権国のアングロ=スパニッシュ銀行では、人類の遺伝子的な向上を投資対象にしてきた。数世紀にわたって実験を重ね、生物工学や遺伝子操作の最高傑作として誕生したのが、ホモ・クアントゥスだ。
 ホモ・クアントゥスたちは驚異的な計算能力を持ち、量子の世界をも知覚する。ただ、期待されていた、企業または軍事戦略にとって最先端の道具とはなれなかった。熟考に没入しがちで、現実世界の自然を詳細に調べることはできるが、難解なアイデアにはまりこんでしまう。
 ベリサリウス・アルホーナは、ホモ・クアントゥス。
 幼少期には早熟な天才として、分子生物学者や心理学者たちを喜ばせた。ワームホール物理学の多次元超立方体理論を研究していたが、16歳のとき、故郷を去った。
 それから12年。
 ベリサリウスはパペット神政国家連盟にたどりつき、パペット・フリーシティに居をかまえていた。ギャラリー経営者として暮らしていたが、実のところ、詐欺師だった。犯罪者たちの界隈では不可能なことをやってのけると評判で、魔術師とも呼ばれている。
 ある日、ベリサリウスのもとに、サブ=サハラ同盟のアイェン・イエカンジカ少佐が尋ねてきた。
 サブ=サハラ同盟というのは小さなクライアント国家。フレイジャ・ワームホールの向こう側にふたつの星といくつかの工業用宇宙ステーションをもっている。
 パトロン国家は、コングリゲート。サブ=サハラ同盟はコングリゲートから中古の兵器や戦闘艦を与えられ、軍事遠征や守備隊の任務を請け負っていた。
 40年前。
 サブ=サハラ同盟はコングリゲートから、中華王国領の深奥まで入りこむ武装偵察ミッションを命じられた。あくまで挑発のため。遠征部隊が生きて帰ることは期待されていない。
 部隊は任務中に、ある発見をした。そして、インフラトン・ドライヴの開発に成功した。現在の文明よりも数十年は先を行く技術だった。
 パトロン=クライアント協定の取り決めでは、このような発見はパトロンに委譲しなくてはならない。しかし、サブ=サハラ同盟にとって、独立するチャンスだった。パペット軸をくぐり、コングリゲートに奇襲をかけるのだ。
 支払いさえすれば、パペットは喜んで通してくれる。ところがパペットに求められたのは金銭ではなく、戦力の半分だった。
 サブ=サハラ同盟は、強引にパペット軸を通過することを決断した。そのためイエカンジカ少佐が、魔術師ベリサリウスに接触してきたのだ。
 依頼を受けたベリサリウスは、仲間を集めるが……。

 宇宙もの。
 600ページを越える分厚い本ですが、それでもなお、説明不足気味。わざとかもしれませんが。
 ベリサリウスは詐欺師です。冒頭のエピソードで依頼人を嵌めてみたり、ちょっと一筋縄ではいかない人物。28歳なので印象としては若いのですが、無能な自分を積極的に演出したりもします。
 サブ=サハラ同盟の依頼を受けたベリサリウスは、ひとりずつ仲間を集めていきます。寄せ集めなわけですから、仲良しとはいかず。計画が実行されても、予想外の事態が次々と起こります。

 有能な犯罪者集団による大胆な計画だけでなく、先史文明やら、遺伝子操作された種属やら、ガジェットも申し分ないのに大満足とはならない不思議。いかんせん、世界設定が複雑なのに説明不足。そこにベリサリウスの量子的視点がのってきます。
 おそらく、宇宙SFの読書経験があって、こまかいことは読み飛ばせる人向け。初読よりも再読の方がおもしろがれそうです。


 
 
 
 

2020年07月16日
ドゥニ・ゲジ(藤野邦夫/訳)
『フェルマーの鸚鵡はしゃべらない』角川書店

 マックスは11歳。 土曜日にはいつも、クリニャンクールの蚤の市をひとまわりしている。
 その日も同じだった。違うのは、すごく興奮したふたりの男に気がついたこと。
 はじめマックスは、けんかだと思った。実は、男たちはオウムをつかまえようとしていたのだ。抵抗するオウムに、大柄な男が暴力をふるっている。見かねたマックスは、オウムを助け出した。
 そのころラヴィニャン通りでは、ピエール・リュシュ氏にブラジルのマナウスから手紙が届いていた。
 リュシュ氏は74歳。古書店〈千一冊の文書館〉を経営している。10年前の事故で足が不自由になり、実務はペレット・リアールに任せていた。
 手紙の差出人は、旧友のエルガール・グロスルーヴル。グロスルーヴルは、数学の蔵書を送ったから受け取ってほしいという。大変貴重な著作ぞろいで、重さ数百キロにもなるという。
 ふたりが知りあったのは、ソルボンヌ大学時代。リュシュ氏は哲学科で、グロスルーヴルは数学科だった。
 まもなく、グロスルーヴルからの荷物が届いた。蔵書は、急いで梱包されたために整理されていない。リュシュ氏は途方に暮れてしまう。数学のことをなにも知らない人間が、数学の書物をどんなふうに並べればいいのか。
 マナウスから改めて手紙が届くが、警察からだった。グロスルーヴルは自宅の火事で亡くなり、リュシュ氏宛の手紙が焼け跡からみつかったという。
 グロスルーヴルの手紙には、ふたつの未解決の命題を解いたとあった。〈フェルマーの最終定理〉と〈ゴルドバッハの予想〉だ。ただ、証明を秘密にする決心をしたという。
 グロスルーヴルは自殺したのか。それとも証明をめぐってだれかに殺されたのか。
 リュシュ氏は旧友の真意をさぐるため、数学の歴史をひもといていくが……。

 数学史とミステリを融合させたフランスの大ベストセラー。
 読んでみると、内容ではなく話題性で売れたのかな、と。あるいは国民性の違いか。
 アンドリュー・ワイルズが〈フェルマーの最終定理〉の宣言証明したのが、1993年。ミスがあって修正ののち正式に証明を認められたのが1994年。論文誌掲載が1995年。本書の出版は、その記憶がまだ残っているであろう1998年。
 ちなみに、本書の舞台は1992年〜1993年です。

 冒頭のマックスは〈千一冊の文書館〉の2階に住んでます。耳が不自由ですが、その設定は都合良く使われている感じ。母は古書店を実質的に動かしているペレットです。
 このペレットがちょっと不思議な人。マックスが連れ帰ったオウムに難色を示しますが、マックスの一言に折れます。それが
「助けを求めているものをひきとらないっていうの?」
 それで、突然、17年前の転落事故を話す気になります。そのときはペレットが、助けを求めているものだったから。
 転落事故についてはリュシュ氏も初耳。そこから、タレスの逸話がでてきます。
 タレスは、天体の運行の秘密を発見した人物です。哲学者であると同時に数学者でした。空を観察していて畑のまんなかの大きな穴に落ちたエピソードがあります。

 数学史に興味があって知りたい欲求があるなら、おもしろいと思います。数学史には、何人もの天才が登場するんですよ。それも大抵、曰く付き。それらのエピソードはおもしろい。
 けれど物語全体として見たとき、数学史の部分は丸ごとカットしても問題なさそう。タレスの逸話紹介のあたりは融合してましたが、その後は……。
 学べはします。


 
 
 
 
2020年07月18日
シャンナ・スウェンドソン(今泉敦子/訳)
『赤い靴の誘惑』創元推理文庫

 《(株)魔法製作所》シリーズ
 キャスリーン(ケイティ)・チャンドラーは、テキサス出身の26歳。学生時代からの親友、ジェンマとマルシアの3人でニューヨークのアパートをシェアして1年ほどがたつ。
 つい最近までケイティは、単なるマーケティングディレクターのアシスタントだった。必死に働きながら、ニューヨークは変わった街だと思っていた。実は、そうではなかった。
 エルフや妖精や魔法使いは実在していたのだ。背中に羽をつけた女性は本物。ケイティは、目くらましの魔法が通用しない希少な免疫者(イミューン)だった。
 ケイティは請われて株式会社MSI(マジック・スペル&イリュージョン)に転職した。今では、最高経営責任者(CEO)マーリンのアシスタントだ。
 仕事に順調なケイティは、同僚でもあるオーウェン・パーマーのことが気になって仕方がない。
 オーウェンは、当代随一の魔法使い。とってもシャイなオーウェンは、ささいなことですぐに赤くなる。ケイティとする話は、ほぼ仕事のこと。
 ケイティをデートに誘ったのは、イーサン・ウェインライトだった。イーサンは会社の顧問弁護士。同じイミューンということもあり、ケイティは、イーサンにかけることにする。
 ケイティはジェンマに、デートのコーディネートの見立てを頼んだ。
 ジェンマが見つけたのは、艶やかな真っ赤なピンヒール。ジェンマは、最初に決めるのは靴なのだという。最高に素敵な靴を見つけて、そこからコーディネートを組み立てていく。
 この完璧な靴なら、靴を主役にすればいい。
 ケイティは、200ドルという値段に尻込みしてしまう。靴を諦めるが、心の片隅では忘れられない。
 そんなころ、MSI社内ではオーウェンが、スパイがいることに気がつく。
 MSIが元社員のフェラン・イドリスと対決したのはつい先日のこと。イドリスは、またなにかをたくらんでいるらしい。
 報告を受けたマーリンは、秘密裏に捜査することを決めた。担当するのはケイティだ。スパイがスパイ行為を隠すために使う魔法は、イミューンに対しては効果がない。
 ケイティはこっそり調べようとするが、秘密はすぐに秘密でなくなった。スパイがいるという噂が広がっていた。
 ケイティは小さな田舎町で生まれ育った。いってみれば、ゴシップのなかで大きくなったようなものだ。企業スパイの捜査法はわからなくても、噂の広がり方についてはよく知っている。
 ケイティはスパイ本人が噂を広めたと考え、噂をたぐっていくが……。

 シリーズ2作目。
 前作『ニューヨークの魔法使い』を読んでいるのは大前提。
 前作でのマーリンは、ネームバリューだけの存在でした。今作は、アーサー王時代のエピソードが語られたり、マーリンの存在意義がでてきたようです。なお、コネタですので、アーサー王伝説は知らなくても大丈夫です。

 今作で主軸となるのは、MSIでのスパイ騒動。
 さらに、ケイティの両親が遊びにきます。ニューヨークの悪口を言っていたふたりなので、実は連れ戻しにくるのでは? とケイティは疑ってます。
 これまでにちりばめられていた伏線を活用したというより、きちんと組み立てられていた設定をいかんなく発揮した、といった感じ。振り返ってみて納得したりと、細部がすごくうまい。
 なお、前作にひきつづき、恋愛要素が多めになってます。
 ケイテイはオーウェンのことを気にして、観察しまくり。相手の態度に一喜一憂してます。でも、アタックはしない。というのも、ずっと妹扱いされてきた実績があるから。
 第三者からすると、けっこうサインがでている気がするんですけどね。魔法に免疫があるケイティも、先入観には勝てないのか。
 いつまでもいつまでも気にしつづけるケイティに、やや食傷気味。にやにやして読めるタイミングで、どうぞ。


 
 
 
 

2020年07月22日
ニール・スティーヴンスン(日暮雅道/訳)
『七人のイヴ』上下巻/ハヤカワ文庫SF2278〜2279

 あと1日で満月という日、月が破裂した。
 最初に気がついたのは、ユタ州のアマチュア天文家だった。そのとき月では、赤道近くのライナー・ガンマ領域付近に、かすみのようなものが広がっていた。発見者の権利のために写真を撮ろうとしたとき、月は砕けてなくなっていた。
 月だったものは、七つの大きなかたまりと無数の小さな破片に変わった。それらは重力で結びつき、不規則に回転しながら地球をまわりつづけた。
 人々の関心は、何が月を吹き飛ばしたか。しかし、大きなかたまりが衝突して割れたことで、専門家はわれにかえった。
 衝突は指数関数的に増えていくだろう。それは、そのつどかたまりが増えるということだ。無数の破片全部が空にとどまっているわけではない。やがては地球の大気圏に落ちてくる。
 何兆かの破片が。
 地球は不毛の地になるのだ。破片の落下は、5000年から一万年のあいだつづくと予測された。
 人類が生き残るには、大気圏から逃げ出すしかない。地下にもぐるか、宇宙にでるか。
 計算によれば、それがはじまるのは2年後。
 各国政府は、地球にあるすべての遺伝的遺産を軌道に移す〈箱船計画(クラウド・アーク)〉をスタートさせた。中核となるのは、すでに軌道上をめぐっているISS〈イズィ〉だ。
 宇宙で生き残れるのは、1500人の選抜された人々。
 着々と準備は進められていくが……。

 破滅系SF。
 人類全体の話であると同時に、個人個人の話。
 小惑星採掘プロジェクトのため〈イズィ〉の先端には、アマルテアと呼ばれる小惑星が固定されてます。その先端部の責任者だったのがダイナ・マコーリー。ロボット工学者です。
 〈イズィ〉全体の指揮はアイヴィ・シャオがとってます。地球に帰還して結婚する予定でしたが、帰れなくなります。〈クラウド・アーク〉のような大規模計画のトップとしては不適格、とされてしまいます。
 天文学者のデュボア・ハリスは、天体現象を一般大衆にも分かるように説明することを生業にしてます。やさしい人を演じるのに疲れてます。政府にやとわれて仕事しますが、大衆のパニックを抑えるために嘘もつかねばならず、悩み気味。
 ジュリア・ブリス・フラハティは、アメリカ合衆国大統領。まさしく政治家。大統領ゆえの非情な判断もくだすけれど、自分第一。この人がいなかったら……、と考えざるを得ない。

 三部構成になってます。第一部と第二部は地続き。第三部だけが飛んでます。第一部、第二部とエピローグだけで物語を終わらせてもいいような?
 勝手な想像ですが、第三部が書きたかったのかな、と。第三部のために前段の二部がある状態。実際、第三部を味わうには、長大な前段が必要だったでしょうから。


 
 
 
 

2020年07月24日
ニコル・バシャランドミニク・シモネ(永田千奈/訳)
『ネモの不思議な教科書』角川春樹事務所

 ネモは11歳。
 交通事故に遭い、記憶をなくしてしまった。思い出せたのは自分の名前だけ。怒り以外の感情も、どこかに行ってしまった。
 ネモの病室に、友だちだというスニータが見舞いにくる。ネモには、友だちという存在が理解できない。
 友だちが何の役に立つのか、何のために必要なのか。
 怪我はしていなかったネモは、すぐに退院できた。けれど、両親のことが分からない。
 どうして、このふたりのところなのか。ほかにあいている〈親〉がいなかったせいなのか。
 事故に遭う前、ネモは叔父のガスパールと仲良しだった。ガスパールはテレビにも出ているジャーナリスト。ネモは記憶喪失の少年として、ガスパールのテレビ番組に出演することになる。
 番組の前半は、人口問題。ネモは、ガスパールやゲストたちと少年コンティのルポを見た。
 コンティはネモと同じ11歳。アフリカの砂漠で、両親と七人の兄弟と一緒に暮らしている。
 コンティは毎日井戸水をくみにいき、何時間も歩いて薪を拾い集める。夕食はおかゆだけ。テレビや電話はおろか、電気も水道もない。
 スタジオでは、大人たちが貧富の格差について討論した。
 ネモはコンティのことが気になって仕方ない。番組が進んで自分のことが話題になっても、ネモの質問はとまらない。
 コンティはお腹がすいているのに、ごはんを食べられない、どうしてコンティに食べ物をあげないの?
 ネモの出演は大反響。テレビ局だけでなくネモにも、たくさんのメールが届く。視聴者からの要望で、ネモの番組が作られることになった。
 ガスパールの提案は、ネモの時間をさかのぼる旅。ネモがこの先、世界を再発見していくようすをずっと追いかけて、ドキュメンタリーにする。ガスパールが小型のデジタルカメラをもち歩き、ふたりだけで旅をするのだ。
 ネモとガスパールのふたり旅がはじまるが……。

 児童書。
 1998年にフランスで出版されて、歴史や地理、文法や算数を覚えるのにはもってこい、と夏休み中の子どもたちの間で大評判になったそうです。
 巻頭に、ネモが再学習するためにつくったノートが掲載されてます。フルカラーで、ネモが学んだことがまとめられてます。文字がフォントなのが、ちょっと惜しい。せめて手書き風フォントだったら、臨場感がでたと思うのですが。
 ネモの旅はテレビが絡むので、一般人には入れないところにも入れます。どこの国でもそうなんですね。ネモに教えるのは、ほぼガスパール。ときどき、専門家や当事者の話も聞けます。

 冒頭のまとめノートもですし、勉強のため、という雰囲気が強いです。読みはじめは選書をミスしたような気がしたのですが、杞憂でした。勉強以外の部分もきっちりあります。
 ネモは学ぶと同時に、感情を取り戻していきます。最初が怒りで次が……と、もしかすると、人類が発達してきたその通りに展開しているのかもれません。
 物語のポイントは、スニータの存在。
 母国語でちょうどいい時期に読めたフランスの子供たちがうらやましい。


 
 
 
 

2020年07月25日
ギジェルモ・マルティネス(和泉圭亮/訳)
『オックスフォード連続殺人』扶桑社ミステリー

 駆け出しの数学者だった「わたし」は、故郷アルゼンチンで大学を卒業し、1年間の給費留学の機会を得てオックスフォードに行くことになった。
 住まいは、カンリフ・クローズにあるイーグルトン夫人の家。独立したバス、トイレ、キチネットと玄関があるのが魅力だ。夫人は孫のベスと暮らしている。
 数理研究所に通いながらテニスをする日々がつづいた。
 5月の最初の水曜日。
 部屋代を支払うためにイーグルトン夫人宅を尋ねたとき、背の高い男と玄関前で一緒になった。男は、アーサー・セルダムと名乗った。
 セルダム教授は、数学者の間では伝説的な存在だ。論理学における四人の大家の一人と考えられている。セルダム教授の頭の中で、今世紀の最も深遠な理念の構想が練られ、再整理されたのだ。
 イーグルトン夫人はなかなか出てこない。セルダム教授は、夫人の身に何か起こったんじゃないかと心配している。
 ドアに鍵はかかっていない。ふたりが夫人宅に入ると、居間の寝椅子にイーグルトン夫人が横たわっていた。
 夫人は、殺されていた。
 セルダム教授は呆然としている。警察を呼んだ。法医学者によると、死亡時刻は午後2時から3時の間らしい。
 それを聞いたセルダム教授は、3時だろうという。
 セルダム教授のカレッジのレターボックスに、奇妙なメッセージが入っていた。紙には〈論理数列の第一項〉と書いてあった。その下には、カンリフ・クローズの住所と〈午後3時〉という時間。そして、丹念に描かれた小さい円。
 よくあるいたずらだと思ったセルダム教授は、メモを捨ててしまった。だが、心にひっかかり、ふいに、住所が誰のものか思いいたった。
 セルダム教授が確認しようと考えたとき、屑篭はすでに掃除されたあと。ひとまずイーグルトン夫人宅にかけつけた。
 警察が疑ったのは、ベスだった。そのときベスは、シェルドニアン劇場の室内管弦楽団でチェロを弾いているところ。練習のため、3時には劇場にいたという。
 セルダム教授とふたりで、論理数列について話しあうが……。

 数学ミステリ?
 主人公の「わたし」の手記という体裁。セルダム教授の訃報を聞いて、1993年夏の出来事を書きました、という前提です。読み終わってみると、語るのは別の人物の訃報を聞いたときでは、と突っ込みたくなります。
 1993年+数学者、とくれば、アンドリュー・ワイルズの〈フェルマーの最終定理〉の宣言証明が頭に浮かびます。本書でも話題として出てきます。どうも作者はワイルズのことが好きではないようです。

 主人公は数学者ですが、街中の数字を見て「素数だ!」「友愛数だ!」みたいな反応はしません。
 とにかく重苦しいです。主人公の雰囲気そのものが重ためなので、物語も重たくなってます。ワイルズが〈フェルマーの最終定理〉を証明しそうだ、とまわりの数学者たちが浮き足立っているときでも、主人公だけは重い。
 気分が沈んでいるときに読んだらきつそう。


 
 
 
 
2020年07月26日
ナオミ・ノヴィク(那波かおり/訳)
『テメレア戦記 II 翡翠の玉座』ヴィレッジブックス

テメレア戦記》第二作
 19世紀初頭。
 フランスではナポレオンが権力を握り、大陸全土を狙っていた。イギリスは海峡をはさんでフランスと睨み合っている。
 イギリスに、中国使節団がやってきた。
 大使は、ヨンシン皇子。皇帝の兄だ。皇子のひと言で英中間に戦争が勃発しかねない重要人物だった。
 中国は希少な〈天の使い(セレスチャル)〉のドラゴンを、卵のときにナポレオンに贈っている。ドラゴンには、ロン・ティエン・シエンという名がつけられていた。
 卵を運んでいたフリゲート艦は、英国海軍リライアント号によって拿捕された。そのとき艦長だったのが、ウィリアム・ローレンスだ。ローレンスは孵化したドラゴンに選ばれ、人生が変わった。
 テメレアと名づけられたドラゴンは、今では英国空軍の戦闘竜となっている。イギリスからすれば、合法な戦利品だ。だが、中国側は納得しない。
 ヨンシン皇子は、ロン・ティエン・シエンが蛮行にさらされている、と非難する。ハーネスを装着され、牛馬と変わらぬ扱いを受け、荷を運び、戦場で闘う。本来〈セレスチャル〉は、皇帝が乗るドラゴンなのだ。
 海軍大臣のバーラム卿は、中国の機嫌をとろうと必死だ。テメレアを返還するつもりでいる。
 しかし、テメレアとローレンスの結びつきは強い。ローレンスは協力を拒否する。そもそも、テメレアが承諾していない。
 バーラム卿は、テメレアとローレンスが共に中国を訪問することで妥協した。ヨンシン皇子も了承する。ドラゴン用の特大甲板を持つ輸送艦アリージャンス号で、一週間後の出航が決まった。
 このころ、英中関係は冷え込んでいる。
 イギリスとしては、中国がヨーロッパ情勢にいだく興味は、われわれがペンギンに寄せる興味に等しい、という認識でいた。遠方の中国はあまり重要ではない、と。ところが、中国が〈セレスチャル〉の卵をナポレオンに贈ったことで、疑念が生じていた。
 中国の関心をイギリスに寄せたい。そのために、テメレアの問題をうまく処理しなければならない。
 一行は中国に向けて出航するが……。

 改変歴史もの
 史実にドラゴンを絡ませているのが特色です。本作では1806年が舞台になってます。清ではなく中国になってますが、イギリスがアヘンを売りつけはじめたころです。その後、1840年にアヘン戦争が勃発します。

 出航して中国に到着するまでがメイン。まだスエズ運河がないので、中国までの海路がとにかく遠いんです。中国に到着してからもいろいろあります。
 大きな対立軸としては、イギリスと中国という国同士の関係があります。さらに、イギリス内部でも海軍と空軍の仲が悪いとか、政府代理として乗り込むアーサー・ハモンドが若くてしでかしちゃうとか、中国側も一枚岩ではないとか、さまざまな波乱があります。
 波乱だけではありません。ヨンシン皇子がテメレアを中国側につけようとする画策。元々は海軍将校だったローレンスの腐心。アフリカの奴隷貿易を目の当たりにしたテメレアの熟考。
 とにかく盛りだくさん。


 
 
 
 

2020年07月29日
エラリイ・クイーン(大庭忠男/訳)
『九尾の猫』ハヤカワHM文庫

 ニューヨークで連続殺人事件が発生した。
 殺人自体は、それほどめずらしいことではない。しかし今回の場合、一般大衆の関心が強すぎた。
 大衆紙〈ニューヨーク・エクストラ〉が猫の漫画入りで書きたてたからだ。タイトルは〈猫〉にはいくつ尻尾があるか? 新聞の売れ行きは押しあげられ、読者をふるえあがらせた。
 全部マンハッタン。全部絞殺。指紋も、目撃者も、容疑者も、動機もない。犯人が残すのは、死骸とひもだけ。
 あの漫画から、犯人は〈猫〉と呼ばれるようになった。
 ブロードウェイでは、殺人笑劇〈猫〉が唯一の大ヒット。ペット・ショップでは子猫がまったく売れず、ニューヨークのあちこちでひもで絞め殺されたのら猫の死体が発見されるようになった。
 そのころ犯罪研究家のエラリイ・クイーンは、失意の中にいた。自分がかかわった事件で、自分の失敗のためにふたりの人間が死んだ。ショックを受けたエラリイは〈猫〉のことも気にせずにいた。
 ところが、父のリチャード・クイーン警視が〈猫〉の特別捜査班の責任者に任命されてしまう。エラリイ・クイーンも、〈猫〉のあらましを耳にするようになった。
 1人目の被害者は、アーチボルド・ダドリー・アバネシー。44歳独身男性。無職で、これといった趣味もなく、特別な関係をもった人はいなかった。
 2人目の被害者は、バイオレット・スミス。42歳独身女性。大酒飲みで、マリファナの常習者で、9回の逮捕歴がある。生活のためによくない商売をやっていたが、要領よく立ちまわっていた。
 3人目は、ライアン・オライリー。40歳で妻子がいる。勤勉な男で、よい夫で、子ぼんのうな父で、暮らしに追われて昼も夜も働いていた。  
 4人目は、モニカ・マッケル。37歳独身女性。石油富豪の娘。おてんばで、友だちや婚約者とナイトクラブを遊びあるいていた。
 5人目は、シモーヌ・フィリップス。35歳独身女性。安アパートに妹といっしょに住んでいた。下半身の麻痺のため、一生をほとんどベッドの上で暮らした。
 被害者の間には何の関係も発見されていない。
 まもなく、6人目の被害者がでた。
 ビアトリス・ウイリキンズ、32歳独身女性。ビアトリスは黒人社会の責任あるメンバーで、交友に非の打ちどころはなかった。ハーレムの住民で、白人も黒人も、彼女を尊敬しなかったものはいない。
 はじめての黒人被害者だった。市長も警察も、人種のラインを越えたことを危惧していた。
 エラリイ・クイーンは、市長直属の特別捜査官として任命される。そのニュースは大きな反響を呼ぶが……。

 サイコ・キラーもの。
 物語がはじまったときには、すでに5人が死んでます。世間は〈猫〉の話題でもちきり。
 エラリイ・クイーンは父から事件について聞きますが、あまり情報はありません。それでも、特別捜査官に任命されたときにはすでに、犯人の規則性に気がついてます。ただ、その理由が分からず確信が持てない状態。
 ついに被害者の共通項が見つかったときにはぞくぞくきました。
 共通項から犯人が浮かびあがります。が、一気呵成に結末まで到達することなく、ちょっと不思議なダラダラ感。
 最後まで読ませますけど、緩急のつけ方が自分のリズムとは合ってなかったようです。新訳がでているので、そちらで読むとまた違った読後感になるかもしれません。


 
 
 
 

2020年08月02日
ニール・スティーヴンスン(日暮雅通/訳)
『スノウ・クラッシュ』上下巻
ハヤカワ文庫SF1351〜1352

 アメリカ政府は弱体化し、国土はフランチャイズ国家によってモザイク状になった。そして、現実世界と同じように、コンピュータが描き出す仮想空間〈メタヴァース〉も開発が続けられている。
 メタヴァースは、ゴーグルに描かれた画像とイヤフォンからの音声によって出現する。人々は〈アヴァター〉と呼ばれるソフトの一部で出現し、コミュニケーションが行なわれる。
 開発されるのは〈ストリート〉から枝分かれした通り。GMPGの認可を受ける必要はあるが、独自に建物や公園などが作られる。
 ヒロアキ(ヒロ)・プロタゴニストはかつて、仲間たちと小さなハッカー地区を造った。ストリートのプロトコルが初めて書かれたころだ。初期のころに加わったことで、ビジネス全体において一歩リードした。おかげで、現実世界では貧乏暮らしでも、メタヴァースには豪邸をかまえている。
 ある日ヒロはメタヴァースで、謎の男からドラッグ〈スノウ・クラッシュ〉を勧められた。仮想空間でドラッグなど、噂で聞いたこともない。ヒロは男のことを無視したが、〈スノウ・クラッシュ〉は身近なところにあった。
 ヒロは、昔の仕事仲間ジャニータに忠告される。〈スノウ・クラッシュ〉に近寄るな、と。そして、〈スノウ・クラッシュ〉を試したアヴァターが、システムクラッシュする現場に遭遇する。
 一方、ヒロのビジネス・パートナーのY・T。
 Y・Tはティーンエイジャーの〈特急便屋(クーリエ)〉。高速走行中の車を利用しつつ、スケートボードで縦横無尽に走りまわる。運転手にはたいてい嫌がられるが、Y・Tは気にもしない。
 ヒロとY・Tが出会ったとき、ヒロはピザの〈配達人〉だった。
 ピザ配達は、管理の行き届いた大型産業へと成長している。ピザが30分以内に届けられなければ、無料になるだけでは終わらない。
 ピザ会社トップのアンクル・エンゾが注文客に徹底的にお詫びする。イタリアへの無料旅行券を贈呈される。そして、マフィアに恩恵をこうむった人物ということになる。
 アンクル・エンゾはマフィアだった。
 そのときヒロは配達遅延の危機にあり、Y・Tによって助けられた。Y・Tの気まぐれはヒロの命を救い、マフィアに対して貸しをつくった。
 Y・Tはアンクル・エンゾに気に入られるが……。

 ポストサイバーパンク系のSF。
 19年ぶりの再読。
 再読するつもりはあったのですが、さすがに19年は待ちすぎでした。きれいさっぱり忘れていて、ほぼ初読状態。記憶にあったのは、ヒロとY・Tの出会いだけ。それもかなり脚色されている始末。もうちょっと覚えているうちに読むべきでした。
 19年前の感覚は不明ですが、当時より〈メタヴァース〉をすんなり理解できたように思います。多少は知識もついているようで、当時は分からなかったことに気づけたような気もしてます。
 気のせいでしょうけど。
 意外に思えるのですが、重要な要素として古代文明の分析があります。ただ、かなり強引にまとめた印象。トンデモ系な雰囲気を感じてしまって、記憶に残らなかったのはそのあたりが原因なのかもしれません。 


 
 
 
 
2020年08月04日
畠中 恵
『しゃばけ』新潮文庫(Kindle版)

 《しゃばけ》シリーズ第一巻
 江戸時代。
 一太郎は、大店の廻船問屋長崎屋の若だんな。生まれたときから病弱で、なにかあるとすぐ寝込む。そのため、まわりから甘やかされ放題。なにもしなくても生きていけるが、本人には心苦しくて仕方ない。
 ある日一太郎は、見張りの目をかいくぐり、こっそりと店を出た。誰にも言えない用事だった。遅くなるつもりはなかったが、夜になってしまう。
 闇夜の中をちょうちんひとつ。心細しい一太郎に声をかけたのは、付喪神(つくもがみ)の鈴彦姫だった。
 一太郎には、妖怪が見える。
 一太郎が5歳のとき、今は亡き祖父がふたりの子どもを連れてきた。佐助と仁吉と名乗った彼らの正体は、犬神と白沢。お稲荷様から遣わされたのだという。
 ふたりはあのとき約束したとおり、今でも一太郎に仕えている。過保護すぎるほどに。それが一太郎には、ありがたいやら、ありがた迷惑やら。おかげで外出もままならない。
 こんなに遅く帰ってはふたりに怒られてしまう。心配して帰路を急ぐ一太郎は、昌平橋のたもとで死体を見た。さらに、犯人らしき男に追いかけられてしまう。
 妖怪たちに助けられて逃げ延びた一太郎だったが、帰りを待ちわびていた佐助と仁吉から大目玉を食らってしまう。死体のことを話しても相手にされない。ふたりにとって、一太郎がすべて。他はどうでもいいのだ。
 翌日、岡っ引きの清七親分から情報がもたらされる。
 殺されたのは、大工の棟梁徳兵衛。首が切り離されていたという。
 一太郎は首を傾げる。あのとき、首は繋がっていた。だが、清七親分に伝えることはできない。
 一太郎は、妖怪たちに調べてももらうが……。

 6年ぶりの再読。
 今のところシリーズ16巻と外伝を読んであります。数年前から、初巻との乖離を感じるようになっていて、改めて読んでみました。
 その後のことを知っているだけに、感慨深いです。
 後々活躍する人物が名前だけ出てきたり、すでに忘れている人物がいたり、レギュラー陣が影すらなかったり。
 なかでも、鳴家たちにびっくり。家に住みついている小鬼の妖怪ですが、幼い言動は鼻につくほど。やってることは変わらないものの、言葉遣いがまったく違う。
 徐々に変化したのか、突然変えたのか。
 ときにはシリーズものを振り返るのもいいですね。

 
 

 
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