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2021年の記録
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このページの本たち
火星年代記』レイ・ブラッドベリ
銀をつむぐ者』ナオミ・ノヴィク
2000年代海外SF傑作選』SF傑作選
メアリ・ジキルとマッド・サイエンティストの娘たち』シオドラ・ゴス
緋色の楽譜』ラルフ・イーザウ
 
名探偵カマキリと5つの怪事件』ウィリアム・コツウィンクル
魔術師ペンリックの使命』ロイス・マクマスター・ビジョルド
火星夜想曲』イアン・マクドナルド
ロビンソン・クルーソー』ダニエル・デフォー
バグダードのフランケンシュタイン』アフマド・サアダーウィー

 
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2021年06月20日
レイ・ブラッドベリ(小笠原豊樹/訳)
『火星年代記』ハヤカワ文庫NV

 水晶の柱の家は、火星の空虚な海のほとりにある。
 イルとイラの夫妻が死んだ海のほとりに住み始めて、かれこれ20年。ふたりは、真正の火星人らしい茶色がかった美しい肌と、黄色い貨幣のような目と、やわらかい音楽的な声のもちぬしだった。
 このところイラには、妙な予感がつきまとっていた。何かが起る気がしてならない。変な夢を見ては、イルに話した。
 夢にでてくる男は、6フィート1インチ。青い目をしていて、髪は黒く、肌はとても白い。そんなに背が高く、変てこりんな人なのに、イラには普通に見えた。
 男は、陽にきらきら輝く金属製の物に乗って、空から下りて来た。そして、ナサニエル・ヨークと名乗った。第三惑星から船で来たのだと言う。
 イラが夢の男の話をするたび、イルは腹を立てた。
 ある日イルは、凶悪な昆虫銃を手にとって出ていった。イラに、家にいるように言いつけて。
 それから2年。
 地球の第四探検隊が火星に到着した。
 前の三度の探検隊とは、ことごとく連絡がとれなくなっている。ヨーク探検隊は全滅したのだろうか。ウィリアムと部下たちはどうなったのだろう? ブラックの隊は?
 第四探検隊が見つけたのは、死滅した町だった。
 何千年か前に滅んだものもあれば、先週まで住民がいた町もあった。そこでは火星人たちが、何千何万と死んでいた。
 先行した探検隊は、火星に着いていたのだ。火星人と接触し、病気をうつしてしまった。免疫のなかった火星人は、水疱瘡にやられて命を落としたのだ。
 火星人のいなくなった火星には、続々と地球人が移住しはめるが……。

 古い時代の火星SF
 第一探検隊が到着する1999年1月にはじまり、2026年10月まで。短いエピソードの積み重ねで、ひとつの大きな物語になってます。

 出版は1950年。そのため、かなり男尊女卑。あきらかに奴隷な人も登場しますし、差別用語も使われてます。そういう時代だった、と割り切って読む必要はあると思います。
 火星には薄くても大気があって、火星人がいて……というのは、出版当時には一般的な認識だったのでしょう。他の著作者の本でも見かけることがあります。
 火星人たちが遺した美しいものたちを破壊する地球人の、なんと痛ましいことか。そういったことを非難する人がいるのは幸いでした。


 
 
 
 

2021年06月22日
ナオミ・ノヴィク(那波かおり/訳)
『銀をつむぐ者』上下巻/静山社

 ミリエム・マンデルスタムは、小さなパヴィスの町のはずれに住んでいた。
 街道を40マイルほど行った先には、堅牢なヴィスニアの街がある。街へは、荷馬車やそりで行く。旅の道中、スターリクの道が垣間見えることがあった。きらめく異界の道のはるか北には、スターリク王国があるという。
 冬はつねに長く、きびしい。
 スターリクの道からは、スターリクの騎士たちがやってくる。スターリクが狙うのは黄金だ。スターリクは強欲に黄金をうばっていく。
 ヴィスニアの街には、ミリエムの母方の祖父の家があった。たいそう商売上手な金貸しで、モシェルの大旦那と呼ばれて尊敬されている。
 父も金貸しだが、心根のやさしい人で、借金の取り立てが苦手だ。金があるときには、いつもだれかが借金を申し込みにくる。そして、なかなか返さない。
 町の人たちは、借金なんか踏み倒せばいいと考えているのだ。母の持参金すら、今では他人の家にある。彼らは冷ややかで、情け知らずだった。
 16歳のミリエルは、決心する。
 ミリエルは父の帳簿をめくり、書いては計算し、また書いては計算した。たまった利子、うやむやにされた返済期限、すべてを調べ、返済されるべき金額を一覧にしていく。それを元に借金のある家を一軒一軒訪ね、返済を迫った。心を鬼にして、冷酷に、法に訴えると脅しながら。
 こうしてミリエルは、商売上手な金貸しとなった。
 ミリエルのしていることを喜んでくれたのは、祖父だけ。ミリエルは祖父から、助言と、革袋にぎっしり詰まった銅貨をもらう。懸命に働き、祖父に革袋を返すときには、銀貨をぎっしり詰めた。それらは、14枚の金貨になった。
 そのころミリエルは、自分は銀を金に変えられる娘だと自負するようになる。ところが、家の周囲でスターリクの痕跡が見られるようになった。
 そして吹雪の夜、スターリクは小さな白い革袋を置いていった。中には、小さな銀貨が6枚。彼らは、銀貨を贈り物としてくれるほど心やさしくはない。これを金貨に変えるように求められているのだ。
 ミリエルは、スターリクの銀貨を持って、ヴィスニアの街へと向かうが……。

 中世東欧を舞台にしたファンタジー。
 ミリエルとワンダの視点で物語ははじまります。やがてイリーナも中心人物となり、物語が展開するにつれて、脇役たちも語りはじめます。
 ミリエルはユダヤ人です。ユダヤ人で金貸しとはどういうことか、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』(の解説)で学びました。そういう予備知識があると、より深く読めるように思います。とはいえ、作中でちょこちょこと、ユダヤ人差別が書かれてます。なので、知らなくっても大丈夫。本作で知ることができます。
 ワンダは、貧しい農夫の娘。父の借金を返すため、ミリエルの家で働くことになります。つまりは借金のかたですが、ワンダは大喜び。父はアル中の暴力野郎で、ワンダを売り飛ばすところだったんです。
 イリーナは、ヴィスニアの公爵令嬢。スターリクの血を引いています。皇帝ミルナティウスに嫁ぎ、皇后となります。

 ミリエル、ワンダ、イリーナは、それぞれが窮地に陥ります。窮地が3人を結びつけ、物語は動いていきます。
 自分勝手で契約至上主義のスターリク王、父の悪行に脅えるワンダと弟たち、ミルナティウスの秘密。もう、盛りだくさん。
 お腹いっぱいになりました。


 
 
 
 

2021年06月23日
橋本輝幸/編
エレン・クレイジャズハンヌ・ライアニエミダリル・グレゴリイ劉慈欣コリイ・ドクトロウチャールズ・ストロスN・K・ジェミシングレッグ・イーガンアレステア・レナルズ
(井上知/酒井昭伸/嶋田洋一/大森望/齊藤正高/矢口悟/金子浩/市田泉/山岸真/中原尚哉/訳)
『2000年代海外SF傑作選』ハヤカワ文庫SF2306

 2000年代に発表されたSF短編の傑作選。
 アメリカで同時多発テロが発生したのが2001年。その影響か、世界の終わりを意識した作品が多い、という印象。そういう時代だったのでしょうね。

エレン・クレイジャズ(井上 知/訳)
「ミセス・ゼノンのパラドックス」
 アナベルは、お茶を楽しむために親友のミッジと待ち合わせをしている。入っていくのは、サンフランシスコのミッション地区にあるカフェ。あるときは、57丁目とマディソン街の角にあるレストラン。またあるときは……。
 解説によると、ゼノンの「アキレスと亀」のパラドックスが下敷きになっているそう。
 アナベルとミッジには連続性があります。一方、時代や環境は不確実。そこはカフェかもしれないし、レストランかもしれないし、というあやふやさです。無限分割されていくブラウニーが笑えます。

ハンヌ・ライアニエミ(酒井昭伸/訳)
「懐かしき主人の声(ヒズ・マスターズ・ボイス)
 あるときご主人は、偽のご主人を連れてきた。
 ご主人は中年で、体格はがっしりしている。一方の偽のご主人は、まだ成人したばかり。ずっと細い。体臭は馴じみ深く、それでいてなにもかもが異質。
 偽のご主人の裏切りで、ご主人は罪を問われた。禁固314年の刑に処されてしまう。残された犬と猫は、ご主人をとりもどそうと活動を開始するが……。
 犬視点の主人愛の物語。
 犬も猫も知能が強化されてます。ご主人奪還作戦を展開中の現在と、ご主人と生活していた過去を行きつ戻りつしながら、どんどこ展開していきます。
 犬視点の、ちょっと幼い感じとやっていることのミスマッチ感がおもしろいです。対照的に、猫はキツめ。猫にとってはご主人ではなく下僕でしょうが、下僕への思い入れが伝わってきます。

ダリル・グレゴリイ(嶋田洋一/訳)
「第二人称現在形」
 テレーゼは、ミッチとアリスのクラス夫妻の娘。薬物の過剰摂取により、テレーゼは死んだ。ただ、身体は死んでおらず、テレーゼではない人格がそこにいる。
 わたしには、テレーゼの記憶がない。クラス夫妻になんの感情もない。だが、17歳のため、法的にはクラス夫妻が保護者だ。
 クラス夫妻は、なにかのきっかけでテレーゼが戻るのではないかと期待している。
 わたしは、新しいセラピストの元に通うことになるが……。
 テレーゼの中にいる「わたし」はテリーと名乗り、別人として生きようとします。単なる記憶喪失ではなく、人格が死んでしまうというところが今風なのかな、と。

劉慈欣(リウ・ツーシン) (大森望/齊藤正高/訳)
「地火(じか)
 劉欣(リウ・シン)は、石炭産業省の遠大なプロジェクト責任者。25年前に亡くなった父は、炭鉱労働者だった。
 石炭産業は労働集約型で、労働条件は悪く、生産効率が低い。時代にとり残された、典型的な伝統産業だ。
 劉欣は、生産方式を根本的に改革しようとしていた。地下の石炭に点火し、炭鉱を巨大なガス発生装置に変える。燃焼帯をコントロールすることで可能になるはずだった。
 周囲から猛反対されるが……。

コリイ・ドクトロウ(矢口 悟/訳)
「シスアドが世界を支配するとき」
 フェリックスは、システム管理者。午前二時に業務連絡用の電話で起こされた。夜中にシステム・トラブルが発生すると、たいてい自宅からの遠隔操作では復旧しない。
 データ・センターでは、20人を超えるシスアドが集まっていた。あちこちでトラブルが発生していたのだ。
 まもなく、現実世界も標的になっていることが明らかになる。閉ざされたクリーン・ルームは安全だ。しかし、外の世界は終わった。
 生き残ったシスアドたちは生き残ろうとするが……。
 破滅SF。
 世界が滅亡して、ネットワークの復旧作業に当たっていたシスアドたちが生き残る、というのは21世紀的ですね。

チャールズ・ストロス(金子 浩/訳)
「コールダー・ウォー」
 CIA職員のロジャー・ジョーゲンセンは、20ページの報告書を前に恐怖で震えていた。次期大統領に見せられるようにまとめなくてはならない。
 ソ連は、コシチェイ計画を進めている。アメリカにもそれに相当する計画がある。それは、門をめぐるものだ。
 南極エレバス山の向こうの極寒の高原に、あるものがあった。地図に載っていないその高原は、ソヴィエト連邦よりも多くのU2スパイ偵察機を、暗黒大陸アフリカよりも多くの探検隊を飲みこんでいる。
 文書をうまくまとめたロジャーは、極秘チームの一員に大抜擢されるが……。
 IFもの。
 ソ連が健在で、冷戦は悪化の一途を辿ってます。門とはなにか、ということと、門の軍事利用が語られます。

N・K・ジェミシン(市田 泉/訳)
「可能性はゼロじゃない」
 ニューヨークではすべての確立が大当たりになり、ありえないことが次々起こる。
 アデルはニューヨーク市民。
 隣家の女性は、自転車を漕いでいたとき前輪がはずれて腕の骨を折った。だから、自転車はあるが使わない。限りなく低い確率というのはニューヨークでは、発生は時間の問題ということ。
 日々に用心して暮らしているアデルは、ヤンキー・スタジアムで行なわれる、街の魂のための祈りという集会に誘われるが……。
 不思議な雰囲気の物語。
 わずかな可能性にも気を配るアデルですが、前向きなのがいいです。

グレッグ・イーガン(山岸 真/訳)
「暗黒整数」
 数学者のブルーノは、ホームオフィスで、サムからの連絡を受けた。何者かが、境界を跳びこえたという。
 サムのいる世界とこちらの世界では、基礎とする数学が違う。もし、あちらの数学的基盤が危機にさらされたとしたら、かれらは文字どおり絶滅の可能性に直面することになる。自らを守るために、こちらの世界を破壊しようとするしもしれない。
 サムとは表面上は友好関係にある。サムに調査を約束し、ブルーノは仲間たちに連絡をとるが……。
 「ルミナス」(『90年代SF傑作選』に収録)の後日談。
 前回の事件から10年がたってます。前作を読んだのは19年前。内容の記録はなく、なにも覚えてません。覚えていれば、90年代からの変化を実感できたかもしれません。

アレステア・レナルズ(中原尚哉/訳)
「ジーマ・ブルー」
 キャリー・クレイは、ジーマというアーティストに長年興味を持ち、インタビューの打診を続けてきた。おなじことを考える同業者は数千人。そもそもジーマは取材を受けない。
 ジーマの特徴は、淡いアクアマリン。強化した身体で、宇宙空間に巨大なアートを展開する。
 ジーマは、ムリエク星で最後の作品を発表するという。
 ムリエク星にやってきたキャシーは、突然、ジーマから招待を受けた。ただし、記録機材の持ちこみは不可。紙と筆記具もなし。
 それでもキャシーは申し出を受けるが……。


 
 
 
 

2021年06月25日
シオドラ・ゴス
(鈴木 潤/原島文世/大谷真弓/市田泉/訳)
『メアリ・ジキルとマッド・サイエンティストの娘たち』
新☆ハヤカワ・SF・シリーズ

 メアリ・ジキルの父は資産家だった。
 ところが、父の死亡で財政状況が一変してしまう。資産がすべて消えていたのだ。ブダペストの銀行に送金され、それっきり。
 そのときメアリは7歳。
 幸い、母にはいくらかの収入がある。
 ところが、母が病に倒れると、豊かでなかった暮らしは貧困に陥った。売れるものはすべて売り、壁のあちこちに絵画が飾られていた四角い痕跡だけが残った。
 そして、母は亡くなった。
 今ではメアリの資産は、12ポンド5シリング3ペンスの貯金と、売れる望みのない屋敷だけ。もはや収入はない。
 そんなとき、母の事務弁護士から予期せぬ知らせが舞い込む。
 母は秘密裏に、口座を持っていた。訃報欄で死去を知った銀行の取締役が、弁護士に連絡してきたのだ。
 口座には、開設と同時に100ポンドを預けられていた。月に1ポンドが聖メアリ・マグダレン協会へと送金されている。ハイドの世話代として。まだ23ポンドが残されていた。
 メアリは、ハイドという名に驚く。
 14年前。父が亡くなる少し前のことだ。
 ダンヴァーズ・カリュー卿が、杖で殴り殺された。目撃証言により容疑者とされたのが、エドワード・ハイド。メアリの父ジキル博士の雇い人だ。
 ハイドは行方をくらまし、間もなく父は自殺した。
 母は、ハイドの居場所を知っていたのだろうか。当時、ハイドの逮捕につながる情報の提供者には、報奨金が出ていた。
 メアリは、私立探偵のシャーロック・ホームズを訪ねた。
 カリュー卿の事件のことで、あの有名な私立探偵と父が話をしていた記憶がある。なんといっても気になるのは、報奨金だ。今でももらえるのか。
 ホームズは、14年前の事件を覚えていた。当時、まだ警察と親しくはなく、満足な捜査はできなかった。その程度の関係だが、結末に興味がないわけではない。
 メアリは、ホームズの相棒ドクター・ワトスンに付き添われ、聖メアリ・マグダレン協会へと向かうが……。

 ローカス賞受賞作。
 《アテナ・クラブの驚くべき冒険》三部作の第一部
 ホームズは、連続殺人事件に捜査協力中。身体の一部が欠損しているという特異な事件で、メアリも関わっていきます。
 主人公はメアリなものの、なんといってもホームズとワトスンがいいです。イメージ通り。

 本作には、有名な物語に登場するマッドサイエンティストの娘が多数登場します。
 主人公メアリの父ジキル博士は、スティーヴンスンの『ジーキル博士とハイド氏』から。その他にも、H・G・ウエルズ『モロー博士の島』、メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』、ナサニエル・ホーソーン「ラパチーニの娘」に由来する娘たちが登場します。娘ではありませんが、ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』の関係者も多数出演。
 それらを知っている必要はありませんが、読む予定があるなら先に読むべきだと思います。ネタバレしてるものもありますから。


 
 
 
 

2021年07月01日
ラルフ・イーザウ (酒寄進一/訳)
『緋色の楽譜』上下巻/東京創元社

 〈ファルベンラウシャー〉は、ユバルによって創設された。
 ユバルは、旧約聖書で〈竪琴や笛を奏でる者すべての始祖〉と讃えられたカインの末裔。そのためこの秘密結社では、長老のことを〈琴聖(ハープ・マスター)〉と呼ぶ。
 ユバルは、音楽の力を門弟に伝えようと〈音の奥義〉をまとめた。究極の旋律は、記譜を許されない。奥義を究めた達人だけに、演奏を通じて伝承されるものだった。
 17世紀に事件が起こる。
 ユバルの〈音の奥義〉が羊皮紙に書き記された。枢機卿が〈ファルベンラウシャー〉を罠にかけ、〈音の奥義〉を五線譜に記させたのだ。枢機卿の赤から、それは〈緋色の楽譜〉とされた。
 しかし、枢機卿は無限の力を手に入れられなかった。〈色聴〉が備わっていなかったために。
 〈色聴〉たちは、音楽を色とりどりの形や模様で見ることができた。共感覚者の知覚は、指紋のように個体差がある。中には、同じ旋律でも、楽器や空間が醸しだす音色の違いでさまざまに変化する特質を持つ者もいる。
 そして、世界最古の旋律は、特異な才能に恵まれた者にしか読むことができなかったのだ。
 枢機卿のたくらみは、〈ファルベンラウシャー〉の分裂へと発展した。〈緋色の楽譜〉は失われ、組織は〈白鳥一族〉と〈荒鷲一族〉に別れた。
 以来〈荒鷲一族〉は〈力の音〉を守り、その力で人間を操っている。やがては世界を火の海に投げ込み、黙示録さながらに浄化する腹づもり。
 19世紀になり、噂が流れた。
 〈緋色の楽譜〉の在処を、〈白鳥一族〉の〈琴聖〉が知っているという。〈琴聖〉は、その場所を示す地図を残した。その〈琴聖〉こそ、ピアニストにして作曲家のフランツ・リストだった。
 2005年。
 ワイマールで、フランツ・リスト自筆の総譜24枚が発見された。1881年に、ワイマール城で初演された〈ルートヴィヒ・ハインリヒ・クリストフ・ヘルティの「人生の責務」による大いなる交響的幻想曲〉の楽譜だった。額装されたヨーロッパ地図の裏に隠されていたのだ。
 たまたまワイマールに滞在していたサラ・ダルビーは、記念の演奏会に招かれる。サラは世界的ピアニストであり、リストの六代目の子孫だった。
 交響的幻想曲を聴いたサラは、〈色聴〉によって、リストからのメッセージを見るが……。

 楽譜にまつわるミステリ。
 物語は2005年から。
 サラに接近する人たちがいて、〈ファルベンラウシャー〉のことを聞き、ご先祖の残した謎の行き着く先に〈緋色の楽譜〉があることを知ります。
 誰が味方で敵なのか、五里霧中のまま。リストのメッセージを見られるのは、サラのご先祖ゆずりの〈色聴〉だけ。サラは、同行者のことも信用できないまま、ヨーロッパ中を旅してまわります。

 ラルフ・イーザウには児童文学の人、というイメージがあります。
 本書がもし児童文学だったら、おてんばな主人公の破天荒な行動はギリギリ許容されると思います。ですが、実際は大人向けのミステリ。サラも大人です。
 数々の謎はおもしろいです。それだけに、サラの言動が残念すぎます。本書がもし児童文学だったら、と考えずにいられません。


 
 
 
 

2021年07月02日
ウィリアム・コツウィンクル (浅倉久志/訳)
『名探偵カマキリと5つの怪事件』早川書房

 短編集。
 探偵のカマキリは、名探偵としてその名が知られていた。愛用のパイプを口にくわえ、ずばぬけた推理能力で、今日も事件をあざやかに解決する。
 カマキリ探偵の住まいは、バグランド王国はノミ街の下宿屋。相棒のバッタ博士は、くいしんぼうで甘いものが大好き。本業は医者だが、カマキリ探偵の助手として協力している。

 児童書。
 コナン・ドイルの《シャーロック・ホームズ》を、昆虫の世界に移しかえた怪作。登場人物、全員昆虫。
 カマキリ探偵は、ホームズを彷彿とさせます。一方のバッタ博士は、ワトスンとは違う魅力があります。カマキリ探偵にふりまわされて、ちょっとズレてて愛嬌があります。
 昆虫に詳しい人なら、生態をもとにした推理を楽しめるのでしょうね。残念ながらまったく知識がなく……逆に、本書から生態を学べました。

「消えたチョウの怪事件」
 チョウのジュリアナ嬢が姿を消した。ジュリアナ嬢は、サーカスの軽業師。裸ウマアブ乗りの名手で、トップ・スターだった。
 姿を消したチョウはジュリアナ嬢だけではない。ここしばらくのあいだに、何十もの美しいチョウたちがどこかへ雲がくれしたまま、さっぱり行方がわからない。
 カマキリ探偵とバッタ博士は、サーカスの団長から頼まれ捜査をはじめるが……。

「おびえきった学者の怪事件」
 チャニング・チャタテムシ教授のライフワークは、バグランドの歴史研究。本をちびちびかじって内容を消化しながら、平穏無事に過ごしてきた。
 そんなある日チャタテムシ教授は、マイマイガ茶房で、フラワー・ボックスの中になにかが隠してあることに気がついた。ひっぱりだしてみると、貴重な『図解バグランドの歴史』だ。
 喜んだチャタテムシ教授は本を持ち帰り、最後の切れはしにいたるまで味わいつくした。そして、バグランドの歴史以外の、もっとべつのものがあったことに気がついた。
 大使館のスパイによって本に暗号文が隠されていたのだ。
 それ以来、スパイに命を狙われている。
 チャタテムシ教授は、カマキリ探偵に助けを求めた。カマキリ探偵はバッタ博士と共に、大使館主催の舞踏会に潜入するが……。

「イモムシの頭の怪事件」
 ロドニー・イトトンボはチャーリー・キノコムシに、宝の売却の相談を受けた。その宝は、とても貴重で、とても美しい。琥珀の中に保存されたイモムシの頭だった。
 ロドニー・イトトンボは、裕福な骨董品のコレクター、エリオット・メミズムシのことを教え、ふたりで会いに行くことにした。
 ところが、チャーリー・キノコムシは姿を消してしまう。イモムシの頭といっしょに。部屋は荒らされていた。
 相談を受けたカマキリ探偵は、イモムシの頭の出所がバナナランドだと指摘する。バッタ博士をつれてバナナランドへと旅立つが……。

「首なし怪物の怪事件」
 カマキリ探偵のもとに、トビムシが訪ねてきた。
 最近、キノコ四の村の付近では、見るも恐ろしい化け物が夜な夜な出没しているという。昼間でも子供を外で遊ばせられないし、おとなも、日が暮れたあとは外出を控えている。
 化け物は、まるで悪夢の中から出てきたようで、首から上がない。目も、上あごも、下あごも、歯も、舌もなく、首のない胴体に手足がくっついている。
 トビムシに請われ、カマキリ探偵とバッタ博士はキノコ四の村に赴くが……。

「王冠盗難の怪事件」
 エンマムシ警部が、カマキリ探偵に助けを求めてきた。
 まだ大衆には知らされていないが、じつに恐ろしい犯罪が発生したという。
 ヤママユガ国王陛下は王冠とともに、バグランドの全国各地の巡回に出発した。ところが、最初の目的地であるタテハチョウ地方に到着したとき、王冠が紛失していることに気がついた。
 王冠は、バグランド王国の象徴だ。
 カマキリ探偵は宮殿にかけつけるが……。


 
 
 
 
2021年07月03日
ロイス・マクマスター・ビジョルド(鍛治靖子/訳)
『魔術師ペンリックの使命』創元推理文庫

 《五神教》シリーズの連作中短篇集。
 『魔術師ペンリック』続編
 ペンリック・キン・ジュラルドは、庶子神に仕える最高位の神殿魔術師。混沌の魔であるデスデモーナを宿している。
 デスデモーナは、馬とライオンと10人の女性を経て200年ほど生きてきた。ペンリックは魔力とともに、娼婦や医師などさまざまな経験と知識を受け継いでいる。

 本書は、前作『魔術師ペンリック』から6〜7年後。ペンリックは30歳になってます。マーテンズブリッジでいろいろあって、今では、アドリア大神官に仕えてます。
 前作とは物語的につながってません。過去の出来事のほのめかしがある程度。
 世界設定の説明があまりないので、単独で読むと疑問が残りそう。「庶子神ってなに?」みたいな基本的なところで。シリーズものの宿命でしょうか。
 本書には3つの物語が収録されています。連作というより、3部構成。全体で、ペンリックの求婚顛末記になってます。
 3篇とも、ペンリックとニキスの視点から交互に語られていきます。

「ペンリックの使命」
 ペンリックは、船でセドニアへと向かっていた。アドリア公から預かった、セドニアの名将アデリス・アリセイディアへの密書を携えている。
 ペンリックは神殿魔術師であることを伏せ、法務士の事務官を装っていた。書類は整い、偽装は完璧。ところが、到着早々に間諜の疑いをかけられてしまう。
 ペンリックは壺牢に落とされた。壺牢は、忘れてしまいたい囚人をいれておく場所だ。なんとか脱獄したペンリックは、将軍アデリスの無事を確認しようとする。
 そのころアデリスは、反逆罪に問われていた。アドリアとの接触を疑われるが、身に覚えはない。容疑を否定するものの、聞き入れられることはなかった。
 アデリスは、沸騰した酢で目をつぶされてしまう。
 釈放されたアデリスを引き取ったのが、ニキスだった。
 ニキスは、アデリスの異母妹。必死に看病するが、容態は思わしくない。邸は見張られ、使用人の中には密告者がいる。
 疲れ切ったニキスの前に、ペンリックという若い医師が現われる。アデリスの部下だった者たちが匿名で寄付を集め、治療のために雇ったのだという。
 アデリスの治療が始められるが……。

 ペンリックは正体を隠したまま、自分が陥った状況を検分します。そのうえ、とてつもなく緻密な難問が勃発します。
 ペンリックとしては、アデリスを説得してアドリアに連れて帰りたいところ。それが自分に託された任務だから。ちなみに、アドリアとセドニアは海を挟んで対立していて、言葉も違います。
 謎はいくつかあります。アドリアに届いたアデリス将軍の書状とか。ただ、謎解きは主題ではないです。
 読みどころは、ペンリック、アドリス、ニキスの、三者三様な思惑。対立したり、協力したり。

「ミラのラスト・ダンス」
 ペンリックは神殿魔術師。セドニアの名将アデリスとその異母妹ニキスに付き添って旅をしていた。
 アデリスは反逆罪に問われ、セドニアから脱出しようとしているところ。ペンリックはアドリア公のために働いている。アデリスをアドリアに連れて帰りたいが、アデリスは隣のオルバスを目指すといってきかない。
 オルバスは、セドニアから虎視眈々と狙われている。アデリスが亡命すれば、大歓迎されるだろう。
 一行は、オルバスの手前のソシエの街に到着した。
 手配書がまわっており、通常の宿屋を利用することはできない。ペンリックの機転で、3人は娼館に宿を得た。正体を隠すため、ペンリックは高級娼婦のソーラ・ミラに成り済ますが……。

 つなぎの小話的。
 ミラは、デスデモーナが内包している人格のひとり。ペンリックの身体を借りて、活躍しまくります。

「リムノス島の虜囚」
 ペンリックは、アドリア大神官に仕える神殿魔術師。オルバスに滞在している。
 セドニアの名将アデリスをアドリアに連れていく任務は失敗した。アデリスはオルバスに亡命し、すでにオルバス大公のために軍務についている。
 ペンリックはアデリスの異母妹ニキスに求婚するが、断られてしまう。ニキスはアドリアに行くつもりはないのだ。
 そんなとき、セドニアのレディ・タナルから手紙が届いた。
 アデリスがレディ・タナルに求婚したのは2年前。軍務とその後の災難でそのままになっているが、レディ・タナルの心は今でもアデリスにあるらしい。
 レディ・タナルからの知らせは、ニキスの母イドレネ・ガルディキに関することだった。イドレネが捕らえられ、リムノス島の姫神教団の修道院に送られたという。孤島の修道院は、貴婦人を人質として捕らえておくための高級監獄でもある。
 イドレネは側室だ。高貴な生まれではない。ふつうは、貴族の妻と側室は仇同士のように憎しみあう。だからこそ、アデリスを縛るための人質とはならない。ところが、実際の関係が良好であることが知られてしまったらしい。
 ペンリックはニキスに頼みこまれ、ふたりで救出に赴くことになるが……。

 冒険もの。
 そもそもレディ・タナルの書状が罠かもしれない、というところからはじまります。目的地は、リムノス島の修道院。ですが、その後にはイドレネを出国させなくてはなりません。
 修道院は、さまざまな建物の複合体で、険しい崖の上に立っています。唯一の通路は跳ね橋。しかも入れるのは女だけ。訓練した聖犬がいて、訪問者を、女か男か嗅ぎわけてます。
 新たにレディ・タナルと、その秘書スラコス・ボシャが登場。なかなか強烈な人たちでした。


 
 
 
 

2021年07月06日
イアン・マクドナルド(古沢嘉通/訳)
『火星夜想曲』ハヤカワ文庫SF1203

 アリマンタンド博士は、申命記(デューテロノミー)の人だった。
 デューテロノミーは、火星への最初期の入植者たち。惑星全体が自分たちのものであると考える傾向がある。
 アリマンタンド博士は、時間と時間性に情熱的な関心を抱いていた。永年どうにかして時間を旅しようとしていたが、いまだに計算が完成していない。創造的な風変わりさは、他のデューテロノミーたちには受け入れられなかった。
 アリマンタンド博士は緑の丘にある家から追いだされ、風力船でひとり、赤い砂塵の砂漠に入る。
 夜になって焚き火にあたっていると、緑の人がやってきた。アリマンタンド博士は、火にあたるのを許し、貴重な水を分けてやった。
 翌日の夜。ふたたび現われた緑の人は、アリマンタンド博士を赤い崖に開いた裂け目に案内した。そこには古代の孤独な水があった。
 三日目の夜。アリマンタンド博士は緑の人から、時間を旅しているのだと聞いた。おまえをおまえの運命に導くためにここにいるのだ、と。しかし、時間の秘密を聞くことはできなかった。
 翌日、アリマンタンド博士は、旅を続けられなくなってしまう。
 予期せぬオアシスに喜び、風力船を舫うのを怠ったのだ。ものうげで心地よいシエスタから目覚めたとき、風力船は風にさらわれていた。もはや、地平線に消えていく風力船を見送ることしかできない。
 そのとき、ふいに世界が震え、大砂漠の下から途方もない大きさの箱状の物体が現われた。
 ROTECH環境工学モジュールの〈孤児(オーフ)〉だ。
 ROTECHは700年に渡り、火星をテラフォーミングしてきた。〈オーフ〉たちが活躍したが、目の前の〈オーフ〉は死にかけている。
 アリマンタンド博士は〈オーフ〉から、機能停止の手伝いを求められた。そうしてくれるなら、計画にないことだが、このオアシスにいていい。28ヶ月待てば、列車が通りかかる予定だ。
 〈オーフ〉は死に、アリマンタンド博士は〈オーフ〉の残骸を利用して、この場所に住みつくことにした。
 まもなくして、この場所にはさまざまな理由で人がやってくるようになった。追っ手から身を隠すために、あるいは嵐に追われて、はたまた通りがかった列車から追い出されて。
 アリマンタンド博士は、すべての人を受け入れていくが……。

 火星SF。
 20年ぶりの再読。
 物語は、50年に渡る群像劇になってます。
 アリマンタンド博士の他、犯罪帝国の総帥だったジェイムスン・ジェリコ、浮浪者で機械に愛されているラジャンドラ・ダス、などなど多彩な人たちが登場します。
 中心は、嵐に追われ、避難所を求めて訪れたマンデラ一家。

 はじまりと結末は覚えていたのですが、その間のことをきれいさっぱり忘れてました。物語の最初と最後に思いを馳せると、そうなるのも必然だったかな、と思います。
 最初は情緒的。年月が流れて世代交替していくと、物語の性格も変わっていきます。町以外のところにも視点がいきます。そして、また情緒的に還っていく。
 なお、本書は、レイ・ブラッドベリ『火星年代記』を引き合いにされがち。同時期に読むとおもしろいです。


 
 
 
 

2021年07月09日
ダニエル・デフォー(唐戸信嘉/訳)
『ロビンソン・クルーソー』光文社古典新訳文庫

 17世紀。
 ロビンソン・クルーソーは、ヨークの裕福な商人の三男坊。
 ロビンソンの心は海の向こうにあった。父は、法律家にしようと考えていたらしい。だが本人は、海に出るのだと心に決めていた。
 上の兄は家族の反対を押し切って軍隊に入り、戦死している。そんなこともあって、父はロビンソンを説得しようとした。
 一時は心動かされたロビンソンだったが、衝動を抑えきることができない。けっきょく19歳のとき、両親にだまって家をでてしまう。
 はじめての船旅は、友人の父親の船でのロンドン行き。嵐に遭って大変な経験をし、大いに後悔したが、それもそのときだけ。ロンドンについて船をおりると、もはや過去のことになっていた。
 ロビンソンは数学や航海術を学び、貿易で儲けて、いっぱしの水夫と商人に成長した。
 しかし、いつまでもうまくはいかない。アフリカ行きの船がトルコ海賊の奇襲を受け、ロビンソンは奴隷にされてしまう。
 ロビンソンが脱出できたのは、2年後のことだった。主人のために用意した大型ボートで逃走したのだ。追っ手から逃れ、巨大で獰猛な野獣や野蛮人を警戒し、陸には近づかないようにボートで過ごした日々。
 ロビンソンを助けてくれたのはポルトガル船だった。奴隷という身分からは解放されたものの、船はブラジル行き。そのまま祖国から遠く離れることになってしまう。
 ブラジルについたロビンソンは、農園経営者として成功する。仕事が順調にいき、財産も増えた。だが、放浪癖を捨てることができない。
 仲間と船出したロビンソンは、大嵐に遭遇してしまう。
 船は壊れはじめたうえに砂州に乗り上げ、身動きがとれない。唯一の希望は、波間に見え隠れしている陸地だ。島なのか、大陸なのか、人が住んでいるのか、判断はできない。
 ロビンソンらはボートに乗った。必死に陸地へ向けてオールを漕ぐ。ところが、山のような大波に襲われボートは転覆した。散り散りに海へと投げ出され、押し流されてしまう。
 ロビンソンは、運良く陸地に流された。ずぶ濡れで、着替えもなく、空腹を満たす食料も飲み物もない。だが、命は助かった。他には誰もいない。
 ただ、あの壊れかけた船も、海岸に流れ着いていた。ロビンソンは船から使えるものを運び出し、無人島で孤独な生活をはじめるが……。

 ロビンソン・クルーソーもの。
 本家本元。
 読んだ記憶はないのですが、読んでいたとしても子供向けか抄訳版かな、というところ。
 無人島にひとり取り残されてサバイバルする話だと思ってました。実際には、その前後にもいろいろあります。やはりきちんと読むべきですね。
 周囲の人々が善良なのが救い。預けた金は返ってくるし、取引きは公明正大。海賊はいますし、無人島生活は過酷ですけれど、安心して読めます。

 原著の出版は、1719年。(ロビンソンは1632年生まれ)
 小説という新しいジャンルができつつある時代。そのため体裁が精錬されていなくて、翻訳にあたって、段落つけるとか会話をかぎかっこで囲むなどの、多少の手直しが入っているそうです。そのおかげもあってか、かなり読みやすかったです。
 18世紀ですから、帝国主義がそこかしこに見受けられます。ただ、大英帝国だぞってふんぞり返った雰囲気はないです。全盛期より1世紀ほど古いためでしょうね。
 それと、宗教が前面に出てきているのが印象的。とりわけロビンソンが信心深くなってからは、普及書のような雰囲気を漂わせてます。ちなみにデフォーは、非国教会派です。

 なお本書には、味わいのある押絵がふんだんに入ってます。1864年にラウトリッジ社から出版された『ロビンソン・クルーソー』に掲載されていたもので、J・D・ワトソン画、ダルジル兄弟彫版のものだそうです。


 
 
 
 

2021年07月13日
アフマド・サアダーウィー (柳谷あゆみ/訳)
『バグダードのフランケンシュタイン』集英社

 2005年バグダード。
 ウンム・ダーニヤール・イリーシュワーは、バターウィイーン地区七番通りにひとりで住んでいた。夫はすでに亡く、娘たちは家族とオーストラリアに移住している。息子のダーニヤールは、20年前に戦死した。
 息子を戦場に送ったのは、床屋のアブー・ザイドゥーンだ。ごりごりのバアス党至上主義者で、ダーニヤールの襟首を掴み引っ立てて、知らないところに連れていってしまった。そのため、大嫌いかつ呪わしい人間のリストに入れてある。
 年月が経つにつれ、実は息子が今も生きているのではないか、と思うようになってきた。そもそも棺桶に遺体は入っていないのだから。
 イリーシュワーの屋敷の上階の一室は、完全に崩壊していた。大量のレンガが隣家との共有壁の裏側に落ち込んでいる。隣家は全壊状態だ。
 隣家には3年前から、古物商のハーディが住みついている。階下の一室にだけ屋根があるのだ。イリーシュワーは、骨董品を買いたがるハーディを相手にしていない。
 ハーディは、ほら吹き男として有名だった。最近の話は、名無しさんのことだ。
 ハーディは、爆破テロの犠牲者の、バラバラに飛び散った遺体を少しずつ集めていた。縫い合わせて、きっかり一人前にするために。最後のパーツは鼻だった。
 あるとき、名無しさんの身体を、さまよえる魂が見つける。
 最後の審判までとどまるべき世界の住民となるには、自らの身体に戻らねばならない。その魂は自爆テロの犠牲者であるために、遺体はなかった。その一方で、醜く奇怪な名無しさんには魂がない。
 動きだした名無しさんは、隣の屋敷に行き、イリーシュワーが目撃することになる。
 イリーシュワーは、息子のダーニヤールを見た、と思った。ダーニヤールと呼び、ダーニヤールの服を与えた。またいなくなってしまうのが怖くて、質問はできない。
 名無しさんは、犠牲者たちの肉体や魂や名前からできている。報復し、復讐を遂げるために誕生したのだ。床屋のアブー・ザイドゥーンを殺したのも、復讐のためだった。
 名無しさんは、次々と人を殺めていくが……。

 イラク人作家による、バグダードが舞台の群像劇。
 2003年にイラク戦争(第二次湾岸戦争)があり、政情は不安定で、バグダードにはアメリカ軍が駐留してます。あちこちで、自爆テロが発生してます。
 あからさまなイスラムっぽさはありません。街にアザーン(礼拝への呼びかけ)が流れる描写はなく、敬虔なイスラム教徒は登場しません。ですが、建物の装飾とか、会話の端々の言い回しなどで、独特の雰囲気があります。
 内容としては、イリーシュワーの物語と、名無しさんによる奇怪な連続殺人事件が軸になってます。ふたつは、交差しながらも別々に展開していきます。
 あまり馴染みのない世界だけに、すごく新鮮でした。

 イリーシュワーは、アッシリア東方教会信徒。守護聖人と会話するほど信心深い……と言いたいところですが、別の面も持ってます。人間くさくて、どこにでもいそうな老婆といった雰囲気。
 古物屋ハーディーは、製作した遺体がなくなって大慌て。奇怪な事件が連続して起こり、目撃者の証言から名無しさんの犯行だと確信します。
 マフムード・サワーディーは、ジャーナリスト。地方出身者で、ある秘密を抱えてます。奇妙な事件を追うことになり、ハーディーにインタビューします。
 スルール・ムハンマド・マジード准将は、追跡探索局局長。怪事件全般を担当しています。占星術師の長から、奇怪な犯罪者は〈名前の無い者〉だと告げられます。
 それから、もっとも重要なのは、名無しさん。
 銃で撃たれても死なず、追われると同時に、信仰の対象になってしまいます。

 
 

 
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