2018年に、書的独話で「昭和辞書史の謎」を書きました。
佐々木健一のノンフィクション『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』を読みました、という話。
三省堂からは、『三省堂国語辞典』と『新明解国語辞典』というふたつの辞典が出版されてます。それぞれの編纂者は、東大の同期生。ある時期を境に断絶してしまいます。
それが、昭和辞書史の謎でした。
そして今回は、英国辞書史の話です。
サイモン・ウィンチェスターの『博士と狂人 ―世界最高の辞書OEDの誕生秘話』を読みました。
OEDというのは、Oxford English Dictionary(オックスフォード英語大辞典)のこと。
公式の紹介文は、こんな感じ。
「世界最大・最高の英語辞典」と呼ばれ、英文学者のみならず世界中の知識人に愛用されているOED(『オックスフォード英語大辞典』)。その編纂作業の中心人物、ジェームズ・マレー博士は、貧しい家庭に生まれながらも独学で数多くの言語を身につけ、ついにはイギリス言語学界の第一人者となった人物だった。そしてマレー博士には、彼自身、一度も会ったことのない謎の協力者がいた。その男の名はウィリアム・マイナー。元アメリカ陸軍軍医で、何らかの事情のためにクローソンという小さな村から離れられないらしい。1896年の晩秋、この村を訪れたマレー博士は、マイナーのあまりにも意外な正体を知るのだが……。
収録語数41万4825語、完成までに70年もの歳月がついやされたOED第1版。その作成に生涯を捧げた二人の天才の知られざる苦闘と悲劇に光をあて、全米で大反響を呼んだ壮絶にして奇想天外な物語。
英国で最初の辞書らしきものが出版されたのは、シェークスピアの時代。教師だったロバート・コードリーが、2500語を収録した小冊子をつくったのが始まりでした。
想定使用者は、難解語に不慣れな人々。一般的に使われている言葉は載っていませんでした。
これが商業的に成功をおさめ、ブームとなります。その後の150年間で、この種の英語辞典が次から次へとすさまじい勢いで出版されたのです。
17世紀の末ごろには、英語をよりよい言語にし、国の内外における英語の威信を高めようとする気運が高まります。その流れで、難解語が中心だった辞典に一般的な言葉も入りはじめます。
そして18世紀になり、サミュエル・ジョンソンが「英語辞典」を出版します。
この辞典が画期的だったのは、語義の説明の仕方。
多様で微妙な意味の相異を、文字グループの単純な配列によって具体的に示した点が偉大な業績とされました。
ただ、問題もありました。
ジョンソンは、シェークスピアとベーコンとスペンサーの作品で英語が頂点をきわめた、という見解でした。そのため、それより前の時代にさかのぼる必要はないと、切り捨てたんです。
それから100年。
まったく新しい辞典の編纂が正式に提案されます。のちに「オックスフォード英語大辞典」へと昇華する提案でした。
すべての言葉を収録すること。
用例を、単に意味を示すだけでなく、意味の歴史を示すために活用すること。そうすることで、それぞれの単語の一代記を示すこと。
新しい辞典の編纂が開始されたのは、それから22年後。
その後も紆余曲折あり……
1879年。
ジェームズ・マレー博士が、OEDの編纂主幹に就任します。
最初にマレー博士は、篤志文献閲読者を大々的に募集しました。すべての単語を収録し、それぞれに用例をつけるとなると膨大な数になります。ボランティアの協力が必要不可欠だったんです。
マレー博士は「訴え」を書いて発行し、配布しました。
多くの人が応えてくれました。
そのなかのひとりが、ウィリアム・チェスター・マイナー博士でした。
マイナー博士はアメリカ人。ニューイングランドで最も由緒ある名家のひとつから出た立派な人物。元陸軍将校で、エール大学を卒業した外科医で、かなり資産家。
マレー博士の「訴え」を手にしたときには、オックスフォードから50マイル離れたクローソンという小さな村に滞在していました。
『博士と狂人』の冒頭は、1896年晩秋。
マレー博士にとってマイナー博士は、OEDに重要な役割を果たしている人物。直接お礼を言いたいのですが、マイナー博士はクローソンから離れようとしません。
そこでマレー博士は、自分から会いに行くことに決めます。
その結末は?
『博士と狂人』は、G・Mに捧げられてます。
ジョージ・メリットのあの事件がなかったら、OEDは日の目を見なかったかもしれません。
気になりますよね?
ぜひ、本書をお読みください。