簿記の勉強をしていて常に思うのは、大昔にタイムトラベルして商業にたずさわることになったとき、アラビア数字すら知らない人たちに簿記を教えられるだろうか?
そんなことを考えてしまうのは、これを読んでいるから。
L・スプレイグ・ディ・キャンブ
『闇よ落ちるなかれ』
若き考古学者マーチィン・パッドウェイは、稲妻に打たれた瞬間、20世紀のローマから西暦535年の古代ローマの終末期にタイム・スリップしてしまう! 生きるのが難しい時代だった。各宗派間の陰惨な対立抗争、熾烈化の一途をたどる領土紛争……暗澹たる暗黒時代の到来を食いとめようと、パッドウェイは出版技術を開発し、合理的な加算法を人々に教え、ローマ侵攻を企てるゴート人、ヴァンダル人と闘った。彼は歴史のコースを変えるべく必死に生きたのだ、闇よ落ちるなかれと願いつつ……異色SFの巨匠L・スプレイグ・ディ・キャンプの古典名作。
( グーテンベルク21 )
パッドウェイが持っていけたのは知識くらい。
まず、金貸しから融資をひきだします。引き替えにしたのは、アラビア数字による計算法。当時はローマ数字の世界ですから、アラビア数字の威力はすごかったでしょうね。
これなら、なんとかできそう。
次に、獲得した資金で事業をはじめます。やったのは、ブドウ酒からブランデーを蒸留すること。
それにしても、ブランデーの製造販売を思いつくとは!
ブドウ酒ってワインのことですけれど、6世紀ですからね。アルコール度数は高くなく、甘くてジュースみたいな味だったはず。そんな世界でブランデーを独占販売すれば、もうかること間違いなし。
ここで出てくるのが、複式簿記です。
正確な帳簿づけが、事業を大成功に導く鍵。ただ道具をそろえて製造販売しただけでは、原価はどのくらいなのか、何に金を使ったのか、利益はいくらなのか、正確に把握できません。
帳簿づけを個人でちまちまやってる分には、それなりにできると思います。仕入れと売上げがあって、家屋を借りたり、道具を買ったり。高価な道具だったら減価償却してもいいですね。
しかし、使用人に教えて理解させるとなると?
ちょっと自信がもてません。
そんなところで、今回読んだのが、こちら。
渡邉 泉
『会計学の誕生 −複式簿記が変えた世界』
会計―現代の必須スキルの一つと言われながらもついつい敬遠してしまう。本書は中世イタリアの商人たちの帳簿、近世オランダや近代イギリスの簿記書を紹介しながら、財務諸表の誕生とその本質を探る。複式簿記から、貸借対照表、損益計算書、キャッシュ・フロー計算書に至るまで、八〇〇年にわたる会計の世界。
(「BOOK」データベースより)
複式簿記の歴史について、ざっくり書かれてあります。複式簿記の歴史は、目的の変遷と共にありました。その延長線上に会計学が誕生します。
簿記と会計は似ていますが、目的が違います。経営者に報告するためか、利害関係者に見せるためか。
目的の広がりが、会計学を生んだのです。
本書の内容は、5章+序章、終章構成。
第1章で、複式簿記の誕生
第2章で、複式簿記の完成
第3章で、世界最初の簿記書とその後のこと
第4章で、会計学の誕生
第5章で、キャッシュ・フロー計算書
こんな感じです。
入門書ではないので、ある程度の知識は必要です。専門用語が説明なしに出てきます。
とはいえ、会計学をかじってなくても太刀打ちできます。簿記知識でいけます。ただ「日商簿記3級持ってます」だと、ちょっときついかもしれません。最後にでてくるキャッシュ・フロー計算書は、日商簿記1級の範囲になります。
『闇よ落ちるなかれ』は6世紀が舞台でした。簿記のエピソードはネタのひとつに過ぎません。残念ながら、簿記だけでは世界は変わりませんでした。
現実世界では……
現存する最古の勘定記録は、1211年。フィレンツェの銀行家が定期市のときに記した、裏表4ページの元帳勘定です。
その後、変遷を経て複式簿記は完成されていきます。
同じ商人とはいえ、ヴェネツィアとフィレンツェでは帳簿に対する姿勢が違う、というのがおもしろいです。両者の違いは、親族でやっているのか、仲間という名の他人とやっているのか、その違いです。
必要に応じて、改良されていったのですね。
1494年には、はじめての簿記書が出版されます。
このころ、ヨハネス・グーテンベルクによって活版印刷が発明されました。
グーテンベルクは、印刷機の宣伝のために、数学者として知られていたルカ・パチョーリの著作に目をつけます。それが『算術、幾何、比および比例総覧』(略して『スンマ』)です。
全体は615ページの数学書ですが、複式簿記に関する章があります。26ページだけですが、これがはじめて出版された簿記書となりました。
簿記とは関係ないですが、グーテンベルクと聞くと思い出してしまいます。
マシュー・スケルトン
『エンデュミオン・スプリング』
『最後の書』を手にした者は全世界を支配できる。もし悪人の手に渡ったら、世界は破滅への道をたどるのだ。ただし、その本のページは空白で、選ばれし者しか読むことができない。―1450年代ドイツの章は、グーテンベルクなど歴史上の人物が登場、印刷術秘話も織り込まれる。現代のオックスフォードが舞台の章は、主人公ブレークが追跡者の影に怯えながらも、本の謎を解明していく。果たしてその謎とは―。
(「BOOK」データベースより)
宣伝のためだったか、確実に売るためだったか『エンデュミオン・スプリング』では、聖書を刷っていたように記憶しています。実際、1455年の『グーテンベルク聖書』が最初の印刷物だったようです。
簿記にもグーテンベルクが関係していたとは。金があって知識欲もある人たちに向けて、数学書を刷ったのですね。
ちなみに、電子書籍を手がけている〈グーテンベルク21〉の名称由来も、ヨハネス・グーテンベルクです。
さて、時代はくだり、18世紀イギリス。
産業革命がはじまってます。
産業の進化と同時に商売も変化していきます。そうすると、昔ながらの複式簿記に不満がでてきます。
小規模の商人たちにとっては、複雑でわかりにくい。一方、海外貿易ではあまりに単純すぎて役に立たない。それらの解決策として、単式簿記や実用簿記が登場します。
こうした簿記改革を提唱したのは、ダニエル・デフォーでした。
つい先日、読んだばかりです。
ダニエル・デフォー
『ロビンソン・クルーソー』
船に乗るたびに災難に見舞われるロビンソン。無人島漂着でさすがに悪運尽きたかと思えたが、住居建設、家畜の飼育、麦の栽培、パン焼きなど、試行錯誤しながらも限られた資源を活用して28年も暮らすことになる…創意工夫と不屈の精神で生き抜いた男の波瀾の人生を描いた傑作。
(「BOOK」データベースより)
デフォーは、経営コンサルタントでもあったんですね。
18世紀には、バブルも発生します。
南海泡沫事件です。
1720年に英国の南海会社が、無茶な利潤をつくろうとしたために投機ブームが広がり、株価は急騰。その後、暴落しました。
オランダのチューリップバブルは1630年代ですが、株が絡むのは南海泡沫事件がはじめて。バブル経済の語源となったそうです。
南海泡沫事件の結果、会社という存在に法整備がされていきます。ここで、ついに会計学と会計士が誕生します。内部のものだった簿記が、外部に向けた会計へと変化したのです。
なお本書では、南海泡沫事件は出てきますが、どういう事件だったかの説明はありません。なにがあったか推測はできますが。気になったので、自分で調べました。
そのあたりは、ちょっと不親切だな、と。
それはさておき、最新の簿記や会計で欠かせないのが、キャッシュ・フロー計算書です。最後にいよいよ登場します。
きっかけは、ダウライス製鉄会社の比較貸借対照表でした。
ダウライス製鉄会社は深刻な経営危機に陥ります。そのままでは倒産していたでしょうが、戦争があり危機を回避することができました。黒字転換したので、新たな設備投資に乗り出します。
ところが!
黒字なのに、支払いのための現金がなかったんです。どこにも。あるはずの現金がないのは、なぜなのか?
そのとき担当者がひらめいた!
やばかったあの頃と、イケイケな最新の貸借対照表を比べてみよう!
これが、こんにちのキャッシュ・フロー計算書の先駆け。比べてみて、ようやく分かったんですね。利益のすべてが現金というわけではない、ということに。
その後、現代のキャッシュ・フロー計算書へと洗練されていきます。
簿記は世界を変えるのか。
どうも、商売の実状に添って、簿記の側が進化してきたように思います。そのときどきの必要に応じて発展していきながら、商業活動を支えてきたのですね。
正確なところは、渡邉泉『会計学の誕生 −複式簿記が変えた世界』でどうそ。